なくすうと冷たく私の体のある部分を這つて過ぎる。凝乎《じっ》と睨みつめた手近な器具に、心がぢり/\と焼きつけられて、私の手の影のやうなものがそれを掴むらしくみえる――割れる――響――その刹那のひやりとした気持なぞを、いつか私は想像して居る。さうして私は、前後も忘れて、大切なものでも取つて投げるといふやうな、すべてを忘却した朦朧な精神状態になれないのが腹だゝしくつて、われながら小憎らしくて、自分で自分を抓《つね》つてやりたくなる。と、何処かの隅にけろりとして居るやうな利益の観念と妙に取すました反省の力に束縛された濁血が、またむら/\と狂ひ出す。
私はばたりと畳に体を投げる。そこらを掻き※[#「てへん+劣」、第3水準1−84−77]る。あらゆる罵詈雑言の限りを胸のうちに叫ぶ。そしては、その醜い我姿に泣いて/\、熱い涙がぽろ/\と頬を伝はつて落ちる。そのうち塩辛さが、喰ひしばつた歯の間に流れ込むと、私はとう/\声をたてゝ泣くのである。
「なんといふ仕様のない女だらう!」
家の中がしいイんとして居る。襖のかげには息づかひの音もしない。
「なぜあの人は私を擲《なぐ》りに来てくれないのだらう! この! この! 仕様のない、あばずれの、わがまゝの、手のつけようのないこの女を、なぜあの人は打《ぶ》つて/\、ぶちのめして、その腕の力が萎えると共に、私を抱へて泣いて/\は呉れないのだらう!」
私の頬にはまた新しい涙が熱く冷たく流れる。どつかにぶつかつてつき破らなくては、自分で自分の肉を傷つけたいやうな物狂ほしさになつて、私はいきなり起き上つて行く。
「よ! どうかして、どうかして! 打つて、ぶつて!」と、一つの物体の様に我体をあの人の前に投げる。
「さ! 追ひ出すともどうとも勝手にしたらいゝぢやないか!」と、早く事の頂点に達したさに、あばずれた言葉で無茶に叫ぶ。
「馬鹿!」あの人は怒鳴つた。そして自分の声に激した。
「どうしたつていふんだ?……」
私は胸をせか/\させながら、負けない気になつてその顔を睨みかへす。二つの胸が高く不規則な呼吸を続ける。
暫くすると、あの人はなんにも言はずに、如何にも術なさゝうな溜息をして、私から目を外してしまふ。と、私の胸はかすかにおど/\として来る。どうにもかうにも仕様のないこの心のやり場は、やつぱりあの人の胸でなければならない。あの人といふ対象がなかつたなら、私はこんなに気違ひじみたことをしやしないんだと思つて来ると、あの人の心を惹きつけたさにするいろ/\な調子外れの行為が、却てあの人を悩ませたり、苦しませたりするのに気が引けて来て、すこうしづゝ静かな気分に恢復して行く。涙のあとを走るやうな冷たさが妙に佗びしい。
ふとみると、捨てかけて行つた私の手を先刻から握つたまゝ、身じろきもしずに居るあの人の顔に、一つどころを見つめた眼が、一ぱいの涙を溜めて居る。襲ふやうに私の全身に走つた悲しさが、
「リユウリチカ!」と思はず呼び馴れた隆三の愛称を呼ばせて、その首に手を巻かせる。と、搖られてぽとりと落ちた露が私の頬を打つ。
「堪忍《かに》して! 堪忍して!」
私は堪らなくなつて、心からおろ/\と泣けて来る。
「サアシヤがわるい、(さだ子)サアシヤがわるい。ね堪忍《かに》して、堪忍してえ!」
「サアシヤばかりが悪いんぢやないよ。僕も悪いんだ。僕が至らないんだ。僕がもつとすべてに於て強者だと、サアシヤにそんなヒステリーを起させないですむんだ。」
それを聞くと、私はまた無上に済まなくなつて、自分で自分が責められて来る。泣いて/\、すつかり泣き切つたあとの洗はれたやうな胸を大切さうに抱へて、私はいつまでも/\泣いじやくりをして居るなんといふその時の私は、柔順なそして健気な心を持つた女であるのだらう!
「私、貴方に手紙が書きたくなつたの。旅行をなさらない?」
「あゝ、金を作つてくれ。」あの人は苦もなく笑戯《しょうだん》にしてしまつた。
私は急に夢がさめたやうになつて、生々とした表情が、水を引くやうに去つて行くのを覚える。なんの興味もない、針の先ほどの刺激もない一日々々の中に、その身が浸つて居ることを思ふと、体も精神《こころ》もげんなりしてしまつて、何も彼もすつかり倦《だ》れきつてしまふ。さうして終日これといふ仕事もしずにぶら/\と過してしまふ。そこにだつて、決して面白いことも、気持の縮まるやうなこともないのだけれど、たゞ惰性になつて行つてゐる松枝さんの家から、思はず時を過したのに驚いて帰つてみると、意外にも早くあの人は帰つて居たりする。
「売れたかい?」あの人は妙に取すまして居る。
「えゝ。」私は自分で自分を瞞着《ごまか》すやうな、また祈るやうな悲しさを抱いて、何気なく平気で笑つてかう答へる。すると、「なんといふ図
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