《だ》れ切つた生活も、私が心持の取直し様一つによつて救はれもする。それだのに私は、自分で自分の心を泣かせながら、それを劬《いた》はる工夫をしないで、たゞ泣声を聞くまい/\として耳を塞いで居るに過ぎない。
「何も彼も私が悪いんだ!」
すると、今まで押し殺し/\して居た不安が、あの人の体に就ての気遣ひが、噴き出す泉のやうに私の胸に湧き起つて来る。あの頬の窶《やつ》れも、あの顔の暗い影も、あの人の胸の異常から来るには違ひないが、それを益々色濃くして行くのは、私であるかも知れないと思ふと、恐ろしいものを抱いてるのに気がついた時のやうに、呼吸《いき》が苦しくなつて来る。やぶれかぶれな心の姿のまゝで今朝も別れたことが、無暗に不安になつて来て、かうして離れて居る時間が、一分間でも遅ければ遅いだけ、取り返しがつかずあの人の体に黒い染みが深く大きくなつて行くやうに思へる。
「今日こそほんとに温かい心をもつてあの人を迎へよう!」
さう思ふと共に、私の体は珍しく軽くなつて、すべての考へが、如何にも妻らしい心持の上に行き渡つて行く。私は急に甲斐々々しく、家の中などの掃除を始める。夕飯にも、何か手の込んだものがこしらへてみたくなつて、暫く打つちやつて置いた料理の本などを引出して見る。
日は暮れて行く。脂肪の焼ける匂ひや、ものゝ煮こぼれる音や、煙りの中に、私は暫くの間|雑念《ぞうねん》を忘れて立働く。あの人の帰る時刻をなか/\見積りかねて、幾度か時計を見上げては、瓦斯の火を細めたり強めたりして居る、足音が表を過ぎるたびに耳を聳《そばだ》てる。
「猫でも貰はう!」と、ふと思ひついたことが、一つの楽しみになつて、そんなものにでも紛れることが、幾らか私の心に変化を与へるかも知れないと、早くそんなことも話して見たく、あの人の顔を見るまでが堪らなく待遠しくなつて来る。冷めないやうにだの、煮え過ぎないやうになどゝ、細かな加減を気にして居るうちに、いつかいつもの時刻は経つて行く。
と、少しく失望して来る私の心は、容易《たやす》く「えゝつ!」といつたやうな気分を誘ひ出して、折角気をつけて白いのに替へたテーブルクロスに、態《わざ》と汁でも溶《こぼ》してやりたいやうな気になる。その落着かない心持では、本を読むことも出来ないし、外の仕事は猶更手につかない。たゞいら/\した心持で、外の足音にばかり気を奪《と》
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