を入れて、そして子供のやうに兩手の指を目にあてゝ涙を拭つた。
『頼むぞよつて、叔父《おんつあ》はこんなものの數でもないおれのやうな者にさう言つたんだ……お、お!』
鼻を啜る音が障子のかげから聞えた。お園が何となしに引き入れられて、わけもなく悲しかつた父親の臨終の有樣をまざまざと思ひ出しながら、前掛でそつと涙を拭いてゐるのであつた。それを聞きつけると、正兵衞も思はず目をしばたゝいた。自若として近親の誰彼に向つてこの世の暇乞をのべた老父の面影は、正兵衞に取つても親しく、悲しく、そして印象の強いものであつた。
何か不思議なものがそこにあつた。座は白けたけれども、併しそれは皆に取つて思惑のわるいものではなく、ある共通したものが三人の暫くの沈默の間を綴つてゐた。それは心と心とであつた。やがては又まちまちに分れて働く心ではあるけれども、そしてその一つの心が、また更に他の刺戟や場合に遇つていろいろに分れ働くのであるけれども、一人の老人が、その死期に臨んで、その子や縁者の間に蒔いて行つたやはらぎや、むつみや、勤勉の種が、たまたま善良なものを慕ふ人間の心の鋤に掘り返されて、その芽を露したやうな瞬間で
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