あるといふお誂向で、常にはお互に多少營業上競爭心は持つてゐても、それが彼に取つて適當した刺戟とはなつても、決して邪魔にならぬ程度のものなのであつた。幸吉は正兵衞のお人好なところに、また彼よりは確に曲つた事の嫌な堅い所に一目を置いてゐるけれども、そしてその爲にこそ彼が安心して、初めて自分をある程度にまで開放する事が出來るのであるけれども、目先がきく點とか、手腕があるとかいふ點については、彼は常に内心密に優越を感じてゐるのであつた。しかも如才のない彼は、自分達の何代か前かゞ、正兵衞の家の出であるといふ事と、本家綿屋の基礎には町の信用がある事とによつて、何事にまれ本家が本家がと立てゝゐるのであつた。
 正兵衞と差向でしやべることについては、彼は別に何等の警戒もいらないのを長い間の交際で知つてゐた。なぜなれば正兵衞は彼に決して背負投を喰はしたり、又は親密な言葉のうちに或事を謀つたりするやうな男では決してなかつたから。といつて正兵衞を除いたその他のあらゆる人達が皆油斷のならぬ人間では決してなかつたけれど、彼は自分の常に隙のない心構に比較して、是非人々をさう見なければならなかつたのだ。ところが正兵衞はいつもすぐ五六盃の酒に赤くなつて、何でも彼のいふ所に同感し、彼を勵し、そしてしまひには二人とも自分達が知らぬ間に善良になつた心をもつて大に友情を感じ合ふのであつた。
 元來酒好な幸吉は、はじめからそれを思ひ立つた時でなくとも、つい晩酌の本數が重つて、鬱勃と湧いて來る野心を、密に自分ひとりが玩味するに堪へなくなつたりすると、彼はきつと正兵衞をむかへにやるか、又は自分の方から徳利持參で出かけて行つたりした。それから餘所の振舞酒にしたたか醉つた時などには、彼の足は先づ我家よりも本家へと眞直に向いて行くのであつた。そこでだけは自分がどんなに羽目をはづしても大丈夫であると、彼の醉うても醉はぬ本性がそれを教へるのであつた。

        二

 彼は今日、そんなに飮んだといふ程飮んだのでもなかつたけれど、そのいゝ加減な微醉が、却つて彼の心持を輕く快くしてゐた。彼は道々家に歸つてからの仕事の手順をあれこれ考へてゐながら、また一方には本家へでも行つて一息ぬきたいやうな誘惑がしきりにするのであつた。本家と彼の店とはつい四五軒離れて向ひ合つてゐるので、今の道順からは、本家の前を通らないでは自分の家
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