に行かれないのであつた。で、どつちつかずの氣持で歩いて來るうちに、彼はたうとう本家の前まで來てしまつてゐた。
『お天氣……』と、彼は大きな聲を出して店先に聲をかけた。
『いよう、どちらへ?』と、張場にゐた正兵衞[#「正兵衞」は底本では「生兵衞」]は人の好ささうな顏を上げて、その赤い顏を見ると一寸からかふやうな調子で言つた。
『大分今日は朝からいゝ御機嫌のやうだなえ。』
 それを聞くと、幸吉は急に自分がほんとの醉つぱらひであるやうな氣特になつて、
『いやどうも……』と、頭に手を上げながら愉快さうに笑つた。
『まあ、寄つてぎなんしよ。』
 と、彼は急に何の造作もなくよろけた足取になつて、
『いやどうも。』と、繰り返しながら、たうとう本家の閾を跨いでしまつた。
 茶の間では[#「では」は底本では「でば」]、家附の娘なる家内のお園が、長火鉢に小鍋をかけて何やら煮物の加減を見てゐた。
『いやどうも朝からはや。』と、いひいひはひつて來た幸吉は、羽織の裾をさばいて長火鉢の前に坐ると、腰から煙草入を取つてすぽんと鞘をぬきながら、お園とお天氣の話やら景氣の話やらをはじめてゐた。そこへ正兵衞が早速煙草入を提げて店から入つて來た。
『一體どつちや行つて來たのえ?』と、彼は坐るなり一ゆり肩をゆすつて、幸吉の赤い顏を物ずきさうに眺めやつた。
『いやどうも朝つぱらから男爵閣下のよび使を受けて……』と、勿體らしく言葉を切つて吸穀を叩きながら、『青巒亭まで行つて來やした。』
 幸吉はそれを極めて事もなく言つたけれども、内心は少し得意な氣持であつた。
『男爵え?』と、果して正兵衞は眼をきよろんとさして言葉を挾んだ。彼は幸吉が誰かを笑談にさう呼んだのだらうと思つた。
『男爵は男爵でも、なに馬鹿殿樣でさ。』
『ほう。』
 正兵衞は男爵が本物らしいので、ますます好奇の念を動しながら、もう一つ肩をゆすつて腰を少し進めた。それにしても彼は二人の間に何か並べたいやうな心そゝりを覺えて、
『まあなにしても久しぶりだ、今日は一本つけて貰ふべ。』と、憚るやうにちらりとお園の方に目をやつた。
『いやどうぞお構なく……。』と、幸吉は慌てゝ辭退をしたが、その實何となくそれを待ち構へてゐたやうな心持であつた。
 お園は默つて臺所の方に立つて行つた。そして小女に何やら言ひつけたり、瀬戸物の音をさせた[#底本は「た」が倒字]りし
前へ 次へ
全14ページ中6ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
水野 仙子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング