てゐたが、間もなく小皿に何やら煮おきのものを盛つて銚子をつけて來た。
『親父《おやぢ》さんが何でも陸軍の中將だか少將だので、その男爵を貰つたんですな、たしか從五位だか、いや正六位だつたかな……』と、しきりに例の男爵の話をしてゐた幸吉は、それを見ると急に恐縮さうに、併し嬉しそうに頭に手を上げて背中を丸くした。
『いやあ、たうとうどうも、相濟みやせんな』
 彼はひどく調子づいて來た。そして郡男爵との邂逅の顛末に話題をつゞけて行つた。
 それは彼が商用で上京した折の歸途の汽車の中であつた。老軍人の殘して行つた財産と爵位とを、嫡子の故をもつて世襲した即ち今の郡男爵は、別にきまつた官職もなく、あつちの投機事業に手を出して見たり、又は新しい會社の創立に加つて見たりして、別に確乎とした目算もしまりもない――幸吉の批評によれば――一の小野心家であるらしかつた。それでて彼はひどく平民的といふ事が好きだつたので――恐らくそれは彼が自分を貴族の一人だと固く思ひ込んでゐたが爲であらう――旅行の汽車はいつも三等に乘つて、彼等の樣々な談話に耳を藉すのが好きなのであつた。あるとき彼は那須野の老軍人が買つて置いた土地の爲の用事で、東北の方を旅行した事があつた。その時自分の前の座席に腰を掛けて、隣り合せた男と頻に開墾地の話をしてゐた商人體の男があつて、その話してゐる事が自分の用事と少し關係がある爲に一所懸命耳を傾けてゐるうちに、男爵はその男の言ふ事がすつかり氣に入つてしまつたのみならず、その猫背の實直らしく見えるところから、手織縞の服裝から、何まで氣に入つてしまつたのであつた。彼は自分からもその男に話を向けた。そしてその男の降りる停車場が自分にも一寸用事のある町だつたので、彼はどういふわけかその事のためにすつかりその男を信用してしまつたのであつた。外でもないその男が即ち綿屋幸吉なのであつた。
『それからつてもの馬鹿にどうもわしを信用しつちまひやしてな、この町さ來るたんびにきまつて青巒亭から迎へに來んです。この近在にも少し地所を持つてんですな、時々小作人なんぞ呼んで酒飮ましたりなんかして、一さわぎ騷いで行ぐんですが、わしの目から見ると、何が何だかどうも、まあ、あゝいふのが馬鹿殿樣つていふんですべ。わしも呼びに來られるたんびに隙だれて仕樣がないけれど、いくら馬鹿殿樣でも、閣下は閣下、男爵は男爵だからと思
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