花の間を、線香の匂がほのぼのと分けていつた。彼は合掌した手を疊について、ぽつくりと恭しくお時儀をしてから座に戻つて來た。彼の顏はその赤さにも曇らず晴々として、相變らず嬉しさうであつた。
『時になえお園さ、おれはこつちのおんつあの事を思ひ出しつちまつて、その話がしたいんだげつとも、いゝがえ?』
『何だか知らないけれど、いゝの位あツりやせんともえ。』
『いゝがえ本家、おれはおんつあの事を話してんだが、いゝがえ?』と、彼は猶もくどく繰り返した。恰も何か一大事でも、殊には正兵衞夫婦にとつてあまり思はしくない事でも言ひ出すのを躊躇してるかのやうに念を押した。
けれども、彼には今決して少しばかりも成心があるのではなかつた。たゞ胸に浮ぶがまゝのことを言ひたい爲ばかりに一所懸命で、あまり人の言葉などは耳に入らず、自分がどんな風にしやべつてゐるかも忘れがちなのであつた。彼はたゞひとりで、五體に行き亙つて行く情緒の快さのうちに、その心の手綱を暫し切り放したのであつた。
『いゝがえ? よし、そんぢやら話すげつともなえ…』と、彼はなほ言葉を重ねるのを止めないで、『こつちの叔父《おんつあ》は全く豪い叔父《おんつあ》だつた……さう言つては何だけれど、おれは全く感心してるんだ、なえ……おれは忘れね、どうしても忘れね、一生涯おれは忘れる事が出來ね……叔父《おんつあ》が亡くなるその前の晩だつた、心配になるので店の用をそこそこにして來て見るとみんなが叔父《おんつあ》の座敷に集つてゐた。叔父《おんつあ》は注射してから暫く眠つてるやうだつて事だつたので、おれはその晩はお伽をするつもりだつたから、炬燵の方に行つて少し横になつてゐた……一時間ばかりすると叔父《おんつあ》は眼を覺した風で、「山太(屋號)で來てゐつかえ?」「は、來て居ツりやす。」おれは急いで叔父《おんつあ》の枕許に寄つて行つた。「どうでごす? ちつとは樂になりやしたか?」「あゝ、ちつと樂にはなつたやうだげつと、少しばかり脚の方を擦つてくれろ。」そこでおれは叔父《おんつあ》の脚の方に廻つて、靜に足を撫でて上げた。
「これでようごすか、もちつとそつとやツりやすか?」つて聞くと、「あゝそれでいゝともえ。」と、叔父《おんつあ》は言つた。「なえ幸さ、いろいろ世話になつたが、おれは今度は駄目なんだから、おれが死んだらばな……」「叔父《おんつあ》そんな事は決
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