か」脱357−2]らずおやぢに同情すると共に、その反感を細君の身邊に持つて行つた。怨嗟の聲も集つた。それかあらぬか、二三日すると細君は中尉を促して急に轉宅の用意をした。
 その引越の朝であつた。茶の間にこまこましたものを纒めてゐた細君は、不意に大きな聲をあげて、從卒を督して蒲團包を拵へてゐた中尉を呼んだ。
『あなた、あなた! どうしませう、お金がこゝにございますよ……』
 茶箪笥の上の茶盆に手をかけた時に、その包のまゝが下に殘つたのであるといふ。
 細君は言つた。
『あなた、これはきつとなんですよ。さわぎがあんまり大きくなつたものだから、薄氣味わるくなつて、恐くなつて混雜に紛れてそつとこゝに置いて行つたに違ありませんよ、まあなんて……』

 それで事件は落着したやうなものゝ、納らないのは拷問一件であつた。この事が程近く港の町の辯護士仲間の耳にはひつて、それはけしからぬことであるといふことになり、會議の結果三名の委員を選んで、ともかく審査のために町に派遣することゝなつた。
 某町に着いた三名の辯護士は、先づ手はじめに醫師を訪ねてその意見と診斷書を取つた。それは拷問のために受けた傷の證明であつた。それから差配のおやぢをその家に訪ねた。辯護士の眼にうつつた彼の容貌は、薄汚い着物を著た四十あまりの鼻ひしやげて、耳も遠く、頭腦が殊に明晰を缺いてゐた。あたり前にものを言へば耳に入らず、側に寄れば臭いといふやうな風で、なるほど一度睨まれたらなかなか嫌疑が晴れまいと思はれやうな男であつた。耳が遠く、鼻ぷんで、おまけに頭がわるいと來てゐるので、話の要領を得るのに困難だつたけれど、要するに拷問を受けたことは確であつた。その五本の指の間が、子供が灸を据ゑられて壞れた痕のやうに、爛れて脹れ上つてゐた。おやぢは辯護士にも、たうとうその當時懷にあつた金の出所を語らなかつた。
 警察署では署長立會の上、拷問をしたといふ係の巡査を取り調べた。そして遠慮なくその訊問調書を作つた。(――それはやがて裁判所に提出されたものであつた。)
 間もなく三人の辯護士の俥は、相次いで町はづれの中尉の新宅に向つた。
 細君は折から買物に出かけようとしてゐた。つやつやしい俥が三輛までも家の前に止つて、見なれぬ洋服仕立の男が、前後してはひつて來るのを見た細君は、何事かと細目に開けた障子をぴたりとしめながら思つた。玄關の
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