も信じなかつた。それにしては何の怪しいところもない。胸に手を置いて考へて見ると、晝の時にちやぶだいの上に置いたまゝ御飯を喰べたことを覺えてゐる。そしてそれから風呂に行つた――その時風呂に持つて行くのは危險だと考へたことも思ひ出せる。だから確に風呂にも持つて行かなか[#原文では「か」脱355−5]つた。それだけは斷定できるけれども、さてそれからの意識がぼんやりしてゐる。そのまゝ置き忘れたやうな、またどこかに一寸入れたやうな……と思ひ迷つた細君の胸に、ふと、
『奧さん、先刻炭屋がまゐりましてね……』と、その出先にはひつて來た差配のおやぢの汚い顏が浮んだ。と同時に、ちやぶだいの上に置き忘れたといふ信念が、疑ふべくもなく細君の頭全部を占めたのであつた。
事件は意外に大きくなつた。中尉の訴に接した當地の警察では、近頃將校の盜難頻繁であるといふ攻撃に面目を失して、(それだけ地方に於ける軍人の勢力はえらいのである。)どうにかして犯人を擧げようと苦心した。その日のうちに嫌疑者として取調を受ける事になつたのは、差配のおやぢで、それはその日同家に出入したものは、たゞ一人より外にはなかつたといふ細君の申立からであつた。おやぢは親戚に不幸があつて、その後仕舞の手づたひに行つてゐる先から拘引された。調べて見ると、その懷の汚い縞の財布から折目正しい二十幾圓かの紙幣が出た。是だけの現金を持つてゐるといふことは、その生計にふさはしくないといふので、嫌疑はますます深くなつた。そこでさまざまに詰問を續けたが、おやぢはどうしてもその金の出所を言はない。勿論盜んだといふことは徹頭徹尾否認する。宥めても賺しても白状しない。が、てつきりこの奴と睨んだだけで、外に證據もないことであるから、係の警察官も持て餘した揚句、不法な拷問を試みた。方法は手輕である。ポケツトの鉛筆をおやぢの手の指の間に挾んで、力まかせにそれを握りしめる。締めつける。それがさもないやうなことでありながら、なかなか體にはこたへるので、をりをり悲鳴を揚げる聲が洩れて傍近く住む人の夢を破つた。
けれどもおやぢは、涙の下から齒がみをしながら窃まぬ盜らぬと言ひ張つた。
中尉の佩劒の音が朝と晩にする度に、附近の人達はすぐに盜難の顛末を思ひ起した。誰も差配のおやぢを犯人であるとは信じなかつた。殊に拷問といふことに反感を抱いた人達は、少か[#原文は「
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