、日によつては日が暮れてから歸つて來る。習慣になつて爲るべき用はしてゐても、氣は少しもそんなことに散らなかつた。すべてのことに考なしに生きて來た。
 前髮の毛をまだざんぎりにしてゐた時分、小さい姉が縫物の下にしのばせてゐた弦齋の「血の涙」や「小猫」などといふやうなものを、ふとひらき見したのが病付となつて、歌であれ、詩であれ、小説であれ、字の上には眼を皿にする興味を持つた。十七ではじめて體の變化を見るまで、お芳は男と女がどう違ふものかといふことも知らなかつた。烈しい驚に泣いて、初めてその時母から女といふものゝことを聞いた、驚と不思議と、それも長くは續かなかつた。
『芳ちやんはめでたく十九になりやした。』と、今年の正月に友達弟子と師匠の家へ行つて、常から奇拔なことをいふのが癖で、かう年始の挨拶をして皆を笑はせたが、その時さう言ひながら、いかにしても自分が十九になつたとは信ずることができなかつた。十九といふ年が不思議な、をかしなものに耳に響いた。
『お早うござりやす。』とか、『鬱陶しいお天氣ですねえ。』とか、そんな言葉をかけられても、たゞ『ええ。』とか、『は。』ですましてゐる。人への挨拶もで
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