。
『用がすんだらお茶でも飮ましやれ。』と、母親はかう言つて、思ひ出したやうに長煙管をとりあげた。
『は。』
宗三郎はまた店へ出て行つた。
『今度は是非君にも免状をとらせたいものだ。宗三郎にだつてさうさうはいくらなんでも氣の毒だから……』
お茶からふとこんな話になつて、二人がひそひそしてゐると、その時また二階から降りて來た宗三郎が、ふつといやな顏をして店に出て行つた。
別段何事もなく二三日經つたが、宗三郎はある日、出かけ先から豚の肉を竹の皮に包んで、懷の中に入れて來た。お芳は七輪を夕餉の席に運んで鍋をかける。脂肪の煮えたつにほひが久しぶりで家の中に漂つて、白い蒸氣が洋燈の傍をかすめて騰つた。
『お父さん、豚が煮えやしたから。』と、宗三郎は手づから皿に肉を盛つて老父《としより》にすゝめた。
『豚え! 今日は喰べまい。』
『さうですか。』
お芳はそつと宗三郎の顏を偸み見た。
盲目の老父には勿論、母親にも氣の付かないことだが、お芳はいろいろなことに氣を配つて、一人ではらはらしてゐた。
かりそめの咳一つでも、双方のさぐり合ふやうな心には大きな態度となつて見えた。宗三郎の顏色も、母
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