、日によつては日が暮れてから歸つて來る。習慣になつて爲るべき用はしてゐても、氣は少しもそんなことに散らなかつた。すべてのことに考なしに生きて來た。
 前髮の毛をまだざんぎりにしてゐた時分、小さい姉が縫物の下にしのばせてゐた弦齋の「血の涙」や「小猫」などといふやうなものを、ふとひらき見したのが病付となつて、歌であれ、詩であれ、小説であれ、字の上には眼を皿にする興味を持つた。十七ではじめて體の變化を見るまで、お芳は男と女がどう違ふものかといふことも知らなかつた。烈しい驚に泣いて、初めてその時母から女といふものゝことを聞いた、驚と不思議と、それも長くは續かなかつた。
『芳ちやんはめでたく十九になりやした。』と、今年の正月に友達弟子と師匠の家へ行つて、常から奇拔なことをいふのが癖で、かう年始の挨拶をして皆を笑はせたが、その時さう言ひながら、いかにしても自分が十九になつたとは信ずることができなかつた。十九といふ年が不思議な、をかしなものに耳に響いた。
『お早うござりやす。』とか、『鬱陶しいお天氣ですねえ。』とか、そんな言葉をかけられても、たゞ『ええ。』とか、『は。』ですましてゐる。人への挨拶もできないと母親からよく叱られたが、子供だ、子供だといはれるのがお芳には寧ろ得意な位だつた。
 母親は大抵枕許にゐる。口數の多い見舞の女客などを引き受けて、お芳は今までのやうにのつそりしてゐられなくなつた。おのづと年上の人に對する言葉を遣つても恥かしくはなくなるし、合槌も打てる。自分が長火鉢の横に坐つて、煙草やお茶などを汲んで出す時には、女――嫁――一家の主婦などゝいふやうなことが考へられるやうになつた。
 店に來た取引の客へ茶を運ぶ、醫者を乘せて來た車夫に火を焚いてやる、それお手水の湯、それお茶、佛壇の南天の葉に埃が溜つたのも目につくし、通りがかりに覆つてゐる下駄を起す程の氣も出た。やらなければならぬと思へば、家の中のいろいろなことに氣が付いた。
 手が廻りかねて日が昏れてから、ぽつりぽつりと綿のやうに飛んで來ては着物にしみて消えるうすら雪に、手拭をかぶつて、凍つた井桁に桶をのせて米も浙いだ。その井戸車の軋る音を寢床に聞いて、『芳はまあ……』と、病人の聲が震へた。
 早くどうか快くなりたい! 姙《みごも》つても姙《みごも》つても辛い苦しい思の形見ばかり殘つて、二十九の今だに一人の子もない心細さ、神を怨んでも見たが、今はもうそれは思ふまい! 盲目の父、かうして横つてつくづく見れば、今初めて白髮に驚かれる母、二人の妹、とそれらが重く重く自分の肩に頼りかゝつてゐた。何事も何事も自分を相談相手にしてゐた夫は、さぞ歳暮《くれ》の忙しさに手廻りかねてゐるであらう、店の者達の仕着せもまだ整へてなかつた。先刻藥罎を持つてはひつて來た清治の足袋から、親指の先が赤く覘いてゐた……あゝ、あゝ糞! 生きなければならぬ!……
 廣くもない家のことゝて、荷を下す車力の聲や、客の駈引、裏の倉に品を出しに驅けて行く足音や、それらが鋭くなつた頭に手に取るやうに響いた。見えない見えないと思つてゐた手袋の片方が、鼠に喰はれてぼろぼろになつて棚のかげから出て來たり、荷車が隣の小間物屋の店にかけて、轅が壞れて突き出されてあつたり、いろいろなことが病人の目に見えた。

       四

『お芳、御苦勞でもなあ、稻荷樣へお母さんの名代になつてお詣して來てくれろや、姉さんの命乞に……もしも快くなつたら旗を上げますつて願をかけて……』
 老人の頑愚を嗤ふにはお芳はなほ幼かつた。馬鹿馬鹿しい、そんな氣も起りながら、なほまた漠然として神といふものに望をかけて、一寸着物を更へて家を出た。宵に小ぶりの雪が解けかけて、家家の檐にしぶきがしてゐる。泥に塗れた雪が下駄の齒にきしんで足袋が濡れた。
『お母さんは、とても助るまい助るまいとひとりで青くなつてゐる。併し人間といふものがさうもたやすく死ねるものだらうか? 姉さんが死ぬ? あの姉さんが死ぬ?……』
 人が死んだといふことを聞いてもさう不思議には感じないが、さてその死といふものが今自分の家に來やうとはどうしても思ふ事ができない。
『死ぬもんか、姉さんが、あの姉さんが死ぬもんか!』
『併しもし死んだとする……山崎家に大切な姉さんが死んだとする……』かう思つてその時のことゝ、それから以後のことゝを想像して、お芳はぎよつとした。
『宗三郎兄さんは婿に來た人である。親身の娘といふ鎖が切れて、舅姑と婿との間には隙が出來ずには居らぬ。新しい嫁、それを外から持つて來て押しつけたとて、ますますその隙が大きくなつて行くにきまつてゐるのだ。世間によくある奴、もしも私でも押し付けられたならば……厭だ、厭だ、身ぶるひする程いやだ! その時には、その時こそ私こそ死んでしまふ、いやい
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