や死ぬにも當らない。その時こそあこがれてゐる東京に出られる機會なのかも知れない……』
 お芳はものを書くことを知つて、それを雜誌などに投書することを覺え、高じては常にその道にあこがれてゐた。女といふ名に縛られて、所詮許されさうもない望、ほんとに神樣といふものがあるならば、私を殺して姉さんを助けて下さい。
 感情に喰はれてお芳はしよんぼりとなつた。さていつの間にか鳥居をくぐつてゐたけれども、まじめに合掌して母の願を屆ける氣にもなれなかつた。

       五

 醫學士のところから看護婦が毎日通つて來て洗滌をした。その人はよく學士の細君の蔭口などを産婆に話してゐたが、ある日も縁側のところで二人が何か話してゐる。
『ねえ澤田さん、あの石井のお澄さんね、あの人そら、あの人よ、あの人また入院よ。』
『へえ……また?』
『月經閉止三箇月だつて……』
 何氣なくお芳は出て行つてまつ赤になつた。お芳はこんな職業の人達ですら、そんなことを言ひ合ふなどとは思つてもゐなかつた。
 加納屋のをばさんが下女を一人手傳によこさうかと言つたのを、『いゝえ、結句一人で氣長にやつた方がいゝから。』と斷つて、宗三郎の肌の着替までも洗濯した。雪解道に足袋を汚して來ては脱ぎ捨てゝ、かけかへがなければないでそのまゝ赤い足をしてゐるので、母は見かねて小言を言ひながらも、氷柱の碎ける檐によくそれを洗濯した。小學校から、或はお針から歸つて見ると、母親は丸い背中をして火鉢の前にそれを刺してゐる。そのうちのなるだけ白い、なるだけ刺目の少いのを擇つて、糸を切つてはいた――こんなことを考へながら、男のものまで洗つたり着せたり、それが女の運命なのかと思つたりした。
 風呂場はあつても、この節は大抵すきな時に錢湯に行くことにしてゐる。耳を切るやうな外の寒さを思ふと、つい億劫になつて、三四日行かずにゐたからと、お芳は夜のことゝてむきみやさんを着たまゝ手拭を持つて表に出た。湯屋のある横町へ曲らうとしたところで、提燈を持つた小學校の同級生に會つた。
『なあにまあ、芳ちやんはそんなものを着て?』と、その友達は笑った。
『だつて働くのにはこれでなくちやあ。』
『働くだつて、芳ちやんが?……』
『そんなこといふなら見なんしよ、これでも隨分稼ぐんだからない。』と、お芳は、つと目の前に握つた手を出した。手の甲はがさがさと荒れて、皸が一ぱいに切れてゐた。
『まあ……』と、その友達は顏を見て、活溌で、無邪氣で、文章が上手で、先生達にかはいがられてゐたその人が……といふやうな顏をした。
 また清治といふ子は面白い子だつたので、毎日藥取に行く藥局の書生と仲善になつてゐた。時々遊び過ぎて遲くなつて來て宗三郎に叱られたり、さうかと思ふと皸や霜燒の藥などを貰つて來て、お芳にくれたりした。
『お芳ちやん、お芳ちやん、君島さんがこれよこしたぞい。』と、ある日清治は藥罎と一所に一通の手紙を渡した。
『君島さん?……』
『うん? 藥局の人、書生。』と、口早に言つていつた。
 披いて見て笑つてお芳は捨てた。歌のまねしたやうなものが二三首書いてあつて、例によつてお芳の文才を稱へてある。これに類した思はせぶりな手紙は、絶えず他方から來た。
 お芳の足の霜燒は頽れていたみに變つた。
『一人ではなかなか大變だから、民でも呼びよせて使つたらどうだい。』と、宗三郎の姉が來てよくさう言つた。
『ほんとにまあ、芳ちやんのよく働くこと……』
 加納屋のをばさんは來る度に感心する。この人には二番目の息子があつて、もう嫁を取る時分になつてゐる。

       六

 蜜柑、數の子、綿、氷豆腐、細い札のついた砂糖の袋や、尻尾を水引で結んだ鹽鮭などが、歳暮の贈物としてやりとりされるやうになつた。
 病人は先達てから左腹部に出來た凝がまだとれなくて、熱もあまり高くはなくなつたが、同じやうな度で續いた。學士は試にそこに蛭をつけて見たいといふので、お芳はある日、町の裏の百姓家に蛭を買ひに行つた。
 畑と畑の間のくぼみや、細い蔓の枯れて絡つた樹の株などに、斑と殘つた雪が少くなつた。鼠色の夕暮の光に、風はやはり頬につめたく、寂しい郊外を一二軒づつ低い藁家が點々してゐる。
 爐の焔に赤かつた顏の老爺が、
『いくら高く出したつて獲れぬものあ仕方がねえ、冬はみんな豆つ粒のやうにまるまつてゝ、なかなか見付かるもんでねえだ。一疋一兩出すつたつて、なあ、獲れぬものは[#「獲れぬものは」は底本では「獲れねものは」]仕方がねえや。』と、動かなかつた。
 ×市の取引先に依頼して、そこから小包で屆けて貰つたが、その時にはさいはひ用がなくなつて、罎の中にたゞ黒い蟲が延びたり縮んだりした。
『まあ上つて、よ、よう。』と、お芳は友珍しさに、一寸お針のかへりから屆けものかたがた顏を
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