ぎよつとして母を呼びに立つた。
『勝、お勝、苦しいか?』と、そつと額に手をやつて見た母親は、『道理で夕方あんまり紅い顏をしてると思つた!』とつぶやいた。
宗三郎もびつくりしたやうに入つて來て、すぐに清治を醫者の家にやつた。熱度をはかつて見ると、四十一度にちよつぴり頭が出てゐる。來るべき暴風が來たといふやうな氣を集めて、人々は枕許につくねんとした。晝間だけ病家まはりを雇俥でするらしく、醫者は馬乘提燈をさげて和服で來た。霙の中を蛇の目の後について、清治は手さげをさげて續いた。形のとほりに脈をとつて再び熱度をとつたが、その時はもう一度ばかりひいて、かへつて熱さうにふうふうと頤にかぶさる蒲團を氣にしてゐた。醫者が歸つたあと、清治はまた頓服をもらひにやられた。
聞き傳へて折々さまざまな見舞の客が來た。こゝの老父のもの堅いのを少からず信用してゐる蒟蒻粉問屋の新造、夫婦揃つて塵も積つて山主義の身代を溜めた加納屋のをばさんは、殊に度々見舞つてくれて、その度にお芳にいろいろなことを教へていつた。産婆や何かにも、手のないところを一々お茶を出したり何かしなくとも、後で相當のお禮をすればいゝものだとか、一寸した漬物の仕方などもをしへてくれた。
また新吉田のお竹をばさんといつて、縁つゞきになつてゐる乾物屋の女を、これは山サの一家が揃つてみな嫌だつた。榮へる家を妬《や》くやうに話し、衰へる家を小氣味よささうに語るやうな種類の女で、年中人の家のあらばかり搜してゐる。口のはたに唾を溜めるのが嫌だといつて、産婦はいつもこの人の聲を聞く度に、眠つたふりをして病室にはひつて來るのを避けた。
老父の話相手でもあり、お勝が若い頃に茶の湯を習つた先生でもあり、子供の時からのかたはのために、占や灸點のやうなことをやつてゐる人の細君も來た。人の好いばかりで、どこか足らぬといふやうな噂のある人で、その時來合して、醫者と産婆が白い衣を着て、ブラシユで手を洗つて、洗滌の用意をしてもまだ病室を出なかつたのには少からず困つた。
一寸顏を出して見舞をのべて行く人もあり、兩隣や向の家からもおかみさん達が來て、『赤んぼは仕方がありませんけれどもねえ、なにしろ親のからだが大事ですわい。なあにまだお若いんだから。』と、皆同じやうなことを言つて歸つた。出入の商家からなども見舞の品を送つて來た。玉子が殊に多く集つた。
四十度近くの熱が續くばかりでなく、時には平温をずつと下つて、熱度表の青い筋が度はづれて高低になつた。そろそろ薄曇の眼鏡をかけた醫者の手にかけて置くのがなんとなく不安になつて來た。産科醫でなく、かうなつてはもう普通の病氣のやうなものだからといふ説も出て、つい一週間ばかり前に開業した醫學士――新しいものを好む人の常のせいか、町ではこの人の評判がすばらしかつた。その醫學士をといふことになつて、一寸手づるがあるのをさいはひ、加納屋のをぢさんがある晩提燈をつけて、特にわざわざ勝手元から頼みに行つてくれた。
その晩病人は突然烈しい戰慄が來た。早急のことゝて母親もお芳も少からず狼狽して、聲をたてゝ宗三郎を呼んだ。醫者へ驅けさせた鐵雄といふのが、折惡しく近在の急病人のところへ行つて留守だつたと戻つて來た時には、ふるへはをさまつてゐたが、そのかはり今度は急に熱がり出して、蒲團をかいやつて仕方がなかつた。その明日背の圖拔けて高い醫學士が廻つて來た時にも、前夜と同じやうな戰慄が來て、寒い寒いと大騷をするので、そこにあつたありたけの座蒲團をかけて、母とお芳が左右から力を入れて押へてゐた。暫くして熱い熱いと言ひ出すのもそのまゝにして置いて、學士は宗三郎からこれまでの經過を靜に聞いて、やがて徐に手の脈をとつた。
薄曇の眼鏡をかけた醫者は、その日から病人かこつけによしてしまつて、今までの藥代と、それにお禮としてビールを半打添へて持つて行つた。
三
冬至に入つてからは、めつきり寒くなつて、雪の日が續いた。
〇日 二十五度。
[#ここから2字下げ]
つめたいつめたい朝、寒い寒い日。
神の鉢の飯が凍つた。
[#ここで字下げ終わり]
お芳の日記にはこんな字が多くなつた。
[#天から2字下げ]水桶の氷を力まかせに叩いて柄杓の柄を折る。
こんな朝もあつた。凍つた土にさらりとまた白く撒かれて、倉の前に鳩の足跡が紅葉形についてゐる。井戸にかゝつた水がそのまゝに凍つてゐて、乘せた手桶の底がつるりと辷る。釣瓶の繩はつめたいといふよりは寧ろ痛かつた。
家の中の上と下と、この節では大抵お芳の手になつた。かうして切り廻すことが自分にできようとも思はなかつたし、そんな時節が來ようなどとも思ひもうけなかつた。姉や母に手傳つて朝晩の用位はしてゐたけれども、町屋の娘並にお針に通ふ。朝はいゝ位にして出かけ
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