えた。自惚れはいつか影もなく去り、自ら足り、自ら満足を感じた心も姿を隠して、たゞぐわん/\するやうな物の響きに、散歩を楽しまうとした心もめちやくちやに掻き乱されてしまつた。そしてたゞなんともいへぬ不思議なものゝ圧迫を感じるばかりであつた。
 知らず/\台湾喫茶店の前まで来た時、夫は一寸たちどまつて、ぐん/\行きすぎやうとする妻に声を掛けた。
「おい、寄らないのかい?」
 妻は夫から眼を外らして黙つてゐた。そして夫が咎めるやうな顔をして傍《そば》に寄つて来た時、
「お金もないのに止しませうよ。」と言つた。
 しかしそれは今の今まで思ひも寄らなかつたことで、そこの前を通り過ぎる時軽く投げた一と目に、美しい女下駄をちらと入口に見てから、急に入るのが厭になつたのであつた。どのやうに綺麗な立派な女がそこにゐようかと、それが怖しかつたのだ。
 最後の希望《のぞみ》は切れた。それをいくらか楽しみにもし、そこでなるべく気持ちを直して帰る積りでもあつたのだけれど、今言ひ切つた言葉は丁度戦ひを挑んだやうなものであつた。二人の心の保ち合ひは破れた。妻は決して夫の顔を振り向きはしなかつたけれど、その眼がちらと
前へ 次へ
全14ページ中12ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
水野 仙子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング