散歩
水野仙子
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)行《ゆ》かないか。
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一寸|面伏《おもぶ》せな
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)歯※[#「齦」の「齒」に代えて「歯」、11−7]《はぐき》に
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)こと/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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「おい、散歩に行《ゆ》かないか。」と、縁側に立つて小さく口笛を吹いてゐた夫は言つた。
薄暗い台所でしてゐた水の音や皿の音は一寸《ちょっと》の間やんで、「えゝ」と、勇みたつたやうな返事が聞えると、また前よりは忙しく水の音がしだした。
暗い夜であつた。少しばかり強く風が渡ると、光りの薄い星が瞬きをして、黒いそこらの樹影《こかげ》が、次ぎから次ぎへと素早く囁《ささや》きを伝へて行く。便所《はばかり》の手拭ひ掛けがこと/\と、戸袋に当つて搖れるのがやむと、一頻《ひとしき》りひつそりと静かになつて、弱り切つた虫の音が、歯※[#「齦」の「齒」に代えて「歯」、11−7]《はぐき》にしみるやうに啼いてるのが耳だつて来る。
初秋《はつあき》の夜気が、しみ/″\と身うちに環《めぐ》つて、何となく心持ちが引緊り、さあ「これからだぞ――」といふやうな気がするにつけても、訳もなく、灯とそれから人の匂ひが懐しい。暗い空に向つて、遙かに響きを伝へて来る甲武線の電車の音を聞いてゐると、その中の人達や、或はそれの吐き出される明るい街々やが、ぱあつと眼に泛《うか》んで来る。帯の間に両手をさし込んで、そんなことをぼんやり意識しながら、夫は猶縁側に立ち尽してゐると、台所の用をすませて妻がはいつて来た。
「ね、何処に行きませう?」といつも機嫌のいゝ時に見せるあどけない顔をして、箪笥《たんす》の上から鏡台を下して電燈の下に据ゑた。手水《ちょうず》を使つたものとみえて、お湯に刺激された頸《くび》すぢや顔が冴え/″\と紅くなつてゐる。肌ぬぎになつた胸の左右に、二つの小さな丘のやうな乳が、白粉《おしろい》を塗つてゐる手先の運動につれて、伸びたりふくらんだりしてゐる。
「そんなにおしやれしなくたつていゝぢやない
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