か、早くおしよ。」
「だつて………」と鏡の中で眼が笑ふ。
「ねえ、銀座に行つてみませうか? 随分暫く行つてみないから。」
「うむ。」
「そしてウーロン茶を飲むのよ。」
「うむ。」
 二人は何となく幸福であつた。そしてその幸福は、めつたに人が真似することの出来ない、又窺ひ知ることの出来ないものでゝもあるやうに、二人は心密かに得意であり、満足であつた。それは、いつでも夫婦の心がぴつたりと隙《すき》もなく合つた時に、神が用意して置かれる恵みのやうな心持ちであつた。
 髪を撫でつけてしまふと、濡れ手拭ひで二三度顔を叩いてみて、鏡に近く顔を寄せてみたり、眉を上げてみたり、頬を撫でゝみたりして、熱心に鏡をのぞき込んでゐた妻は、縁側の藤椅子に腰を掛けて、興ありさうにこちらをみてゐる夫の顔が映つてるのをみると、につと笑つてやう/\満足したやうに鏡の傍《そば》を離れた。その顔は、「私だつてお化粧をすりあ、ちつとは可愛くなるでせう?」といひたさうに少しすまして。
「さあ/\、早くしないと遅くなるよ。」と、夫は内心その心持ちを悟つて微笑しながら、わざと急きたてた。一つ間違つてすねだしたら最後、石のやうに冷たく固くなつてしまふ悪い癖――その呪はしい一面の性質が、一体この女の何処に潜んでるんだらうと、つく/″\不思議になつて眺められるほど――いや、そんなことはもう未来永劫忘れてしまつたやうに、今夜の妻のそぶりは、馬鹿に可愛らしかつた。
「えゝ。」と、こんな時には何を言はれても腹が立たないらしく、妻は猶にこ/\しながら箪笥の鍵を錠の中にさし入れた。「あなた、寒かあなくつて? わたしもう袷せを著《き》たつてをかしかあないわね?」
 かう相談するやうに首をかしげて言つてはゐるものゝ、その実さつきからもうちやんと心に決めてゐたので、飽きるほど著古して襟垢のついた単物《ひとえもの》よりか、たとひ少し位時節は早くても、袷せを著て出ようと密かに楽しんでゐるのであつた。
「あゝ、僕はその著物《きもの》が好きさ、そいつが一番よく似合ふよ。」と、夫はその著物を二人で買ひに出た夜の記憶をよび起しながら言つた。
「さう。」
 両前を合せて赤い腰紐をぎゆうつとしめながら、一二歩歩いてみて少し短いのを、踵《かかと》で後の裾《すそ》を踏へてのばしながらにつこりした。その時、袷せといつてはこれ一枚きりないこと、それも縫ひ直
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