「あなた、あんなのがお好き?」
「僕は好き嫌ひを言つてるんぢやないよ、一寸美人だつたつていふのさ。」
 妻は再び夫の顔を見て黙つた。「男つてものはどうしてあんな女を好くのだらう?」と、すぐに物事を偏《かたよ》せて考へてしまつて、その男つてものは――に、夫を非難する意味も含めて、心密かに思つた。何よりも妻には、今の夫の言葉の調子が気に喰はないのであつた。
 歩いても/\、明るい灯と賑かな店が続いた。軽々しい淡々しい夏めいたものはみな取りのけられて、早くも冬の仕度をうながすやうな気分が、その店々の装飾にみられた。
「あゝ、すつかり秋だねえ。」と、夫は消息《ためいき》をつくやうにして言つた。
 隙《すき》を窺ひ寄るやうに、なんとはない不安が、その胸のうちに入りくんで来るやうなのを覚えてゐた。漠然としたものではあるが、男子の志といつたやうなものゝ焦慮が、事新しく世の中といふことを思はせた。そんなことをぼんやりと考へてゐたので、
「まあ、随分思ひ切つたやうないゝ柄!」と立ちどまつた妻の言葉を遙かに遠いものでも眺めるやうな心持ちで聞いた。そして一寸はそれが何のことだかわからなかつた。
 妻は美しい新柄で飾《かざ》された呉服屋の飾り窓にとかく気をひかれて、なくてならない自分達の冬着を揃へる時のことを空想しながら頻《しき》りに胸算用をして歩いてゐるうちに、メリンス屋の店に下げてある友禅形に目をとめて、思はず嘆美するやうに声を放つたのであつた。そしてそれについて別段夫の言葉や態度は予期してゐなかつたのだけれど、今ぼんやりと振向いた夫の顔をみて、急に我にかへつたやうになると共に、不思議に反抗するものがその心のうちに沸きかけて来た。その夫の顔は、自分とはなんの交渉もなささうに、澄んで引緊つてゐた。
 二人はお互に離れ/″\になつた心持ちを感じ合つた。そしてそれを引返さうと試みれば試みるほど、益々あらぬ方《かた》に反れて行《ゆ》くやうであつた。
「わたしはあの人の為めにこんな苦労をしてゐるのだ、そして不如意な生活に別段悪るい顔も見せないでゐるのをいゝことにして、当り前だといはぬばかりに、そこのところをちつとも考へてくれやしない。わたしのこの身なりの見窄《みすぼら》しさはどうだらう? これが私の身上ありだけのものだつて言つたなら、世の中の女達はまあどんなにわたしを憐むことだらう? 僅かばか
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