間違つてゐたのだ。一體あの男は半氣狂のやうな男なのだから……と、私はもう全く自分一人の世界から脱け出してしまつて、頻に隣室の事に氣をとられてゐた。彼は二三日前に一寸した腫物か何かで入院したのであるが、それからといふもの、おだやかな日和の中に襲つて來た狂風のやうに、靜な私の周圍を掻き亂してゐるのであつた。廊下を通る看護婦を呼びとめて、左程必要でもない質問をしてみたり、自分の部屋を間違へていきなり[#「いきなり」は底本では「いきなりう」]私の部屋に飛び込んだりする。彼はこの近在の物持の息子で、大分この町の所謂上流にも勢力があるらしかつた。いろいろな見舞の客が出入した。そして絶えずひとりぼつちでゐる事の出來ないやうに、必ず二三人の取卷を必要とした。その連中は、若い小學校の教員とか、少し新しがつた事の言ひたい役場の書記とか言つたやうな者達であつた。彼等は毎晩のやうにやつて來た。そしてその金持の息子を圍んで、彼を煽動したり賞讃したりしながら、値の高い葡萄酒などを振舞はせた。
思ひ出したやうに手に取つた樂器は、また思ひ出したやうに置かれてしまつたらしく、ふつつりとやんでしまつた。
『寒いなあ。』
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