うと身じろぎを愼んだ。
 しかし次の瞬間には、全く思ひもかけず唐突に起つた※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]イオリンの強い絃の音に、われにもなく心をとられて耳を欹《そばだ》てた。私は全くこんな田舍で、かうした樂器の音にめぐりあはうとは思ひもかけなかつた。絃の音ははじめ、一朝にしてすべての聽覺を集めて奮ひたつ如く起り、やがて恥ぢらふやうな躊躇をもつて止んだ。
『やれやれ。』
 一つのだみ聲がそれを促した。
 私は全身の期待を以て耳を欹て、いつも音樂によつて心の奧に隱れてゐるかなしみを引き出され、ひそかに涙するその心持を早くも味ひながら、※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]イオリンの音のむせび出すのを待つた。
 それはやがて起つた。ところが、はつと思ふ間に卑しげな流行歌が得々として彈き出された。しかもそれは、あの都大路を唄ひつゝさすらひ歩く墮落者の肩にあてられた※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]イオリンほどの哀愁もなく、絃の音はその情操のない主人に驅使されることの不遇を悲しむ暇もなく、たゞ義理にうたつてゐた。私はがつかりしてしまつた。
 けれども考へて見ればそんな期待を抱いた私が
前へ 次へ
全21ページ中6ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
水野 仙子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング