つて來たのかい?』と、びつくりした聲が中から應じた。
『ちらちらやつて來ましたよ、このこまかい雪の模樣ぢや、本ぶりかもしれないですね。』
『おやおや。』
『道理で何だか寒いと思つた――また明日は大變だぞ。』
 板戸が閉められて、新來の客の席を取るけはひがした。
 私は首を擡《もた》げて、窓の硝子の外をのぞいて見た。けれどもその内側に光る硝子の外はたゞまつ暗で、耳をすましても、雪の降るらしい音も響もなかつた。しかし雪といふ言葉を聞いた刹那から、ひえびえとした寒さが襟元を襲つたやうな氣がした。二月といつても、北國ではまだ冬の最中なのだから。
『僕は今途中でへんな目にあつて來たんですがね――』と、新しい聲がおづおづ何かに氣をとられてゐるやうに言ひ出した。
『何だい、どうしたんだ?』
『僕がこゝに來ようと思つてね、あの專賣局の裏道を來ると、まつ暗い中に一人の女が蹲《うづくま》つてゐるんだ。そして何か獨語《ひとりごと》をいつてるんだ。僕は氣狂だらうと思つて、遠卷に通り過ぎながらよく見ると、泣いてゐるんだね、はてなと思つて暫く立ちどまつて見てゐたんだ……』
 みんなが耳を聳《そばだ》てたらしく、誰も言葉を挾む者がなかつた。
『何だか知れないが獨語《ひとりごと》をいつては泣いてるんだ。三つ位の男の子をおぶつてるんだが、その子供がまた火のついたやうに泣いてるんだ、「あつち! あつち!」と、子供は後の方をゆびさして、一所懸命に手足をじたばたさせながらふんぞりかへつてゐるんだ。その子供の一所懸命な力で、母親は時々倒れさうになるんだけれども、「おゝよしよし、泣くなよ、今にいゝとこさ連れてつてやつからな。」なんて言ひながら、またぶつぶつと獨語をいひ出すんだ。「死んぢまふ、死んぢまふ、さうだ死んぢまふ、何もかもみんな持つてつちまつたんだ、着物一枚、錢一錢だつて殘つてやしない、あんな家さ歸つたつて仕樣がねえ、さうだ死んぢまふ、死んぢまふ、のんだくれて歸つて來て、おらを出て行けだつて、打つたり叩いたり……」こんなことを言つちやあくよくよと泣いてゐるんだ。「父ちやん! 父ちやん!」つて子供が泣くと、「おゝよしよし、あんな父ちやん戀しがんでねえぞ、父ちやんはな、あつちや行つちまつたんだ、おゝ、さう父ちやん父ちやんていふなよ!」そしてまたおろおろと泣き出すんだ……』
『はゝあ、夫婦喧嘩でもして來たんだね。』と、小聲で誰かゞ言葉を挾んだ。
『僕は何だか氣味が惡くなつてね、うつちやつて來るわけにもいかず、ぢつと隱れるやうにして後の方に立つてゐると、やがては女はすたすたと歩き出すんだ、それが裸足でね、そして二三間あつちに行つたかと思ふと、またこつちの方に引き返したりして、しよつちうぶつぶつ口の中で何か言つてるんだ。何でも二三十分間あつちに行つたり、こつちに行つたりしてたらうね……』
『一體君がそこにゐるのを女は知つてたのかい?』
『さあ、あたり前なら氣付かない筈はないんだが、どうですかね、併しどつちにしろそんな事はあの女に取つて別に問題ぢやないんでせう……』
『まあ、それからどうしたんだい?』
『暫くそんな事をしてましたがね、今度は突然すたすたと歩き出した。僕はぎよつとしましたね、何だか汽車道の方を目指して行くのらしいんだ。子供は聲を嗄《から》して一層烈しく、「いやあいやあ、あつち! あつち!」とひつくりかへる、それでも女はすたすたと、今度は後も見ずに歩いて行くんだ。僕は仕方なしにやつぱり後について行つた……女はどんどんと怖いものを知らないやうに闇の中に突進して行く。子供の泣き叫ぶ聲がだんだん嗄れて來て、雪はちらついて來る……僕は何だか怖くなつて來た。ぐるりを見廻すとまつ暗だし、女の足の早さといつたら、はじめは確に二三間離れてゐたんだのに、子供の聲がだんだんだんだん遠くなつて行くんだ。僕は誰か人が通つたら、その人にわけを話して一所に行つて貰はうと思ふんだけれど、生憎誰も通らないんだね、そのうちに不意と闇の中に提燈が見えた。まあよかつたと思つて行き合ふのを待つてゐると、それはいゝ加減なおやぢだつたがね、前に行き合つた女のたゞならぬ容子に驚いたものと見えて、ちらり僕と見合したその顏といつたら、非常に物怖《ものおじ》をしてゐんだ、そして僕が話しかけようと躊躇してる間に、遁げるやうにして行き過ぎてしまつた……それから僕はますます氣味惡くなつて引き返して來てしまつたんだ……』
『女はどうしたんだい?』
『あの道を一直線に歩いて行つたんだから、やつぱり踏切の方に行くつもりなんでせうね。』
『今の事なんだね?』
『うん今の事さ、僕はまつすぐにやつて來たんだから……今頃はもう行きついてるよ、踏切に……』
 一寸の間ひつそりとなつて、誰も口を出す者がなかつた。
 氣がついてみると、私は
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