。電燈は夜の世界から完全にこの一室を占領したのに滿足したらしく、一時自信をもつてその光輝を強めたけれども、やがて彼はその己の仕事になれた。さうして最早一定の動かない光をのみ、十分なる安心と、僅なる倦怠とのうちに發散した、恰も私一人の上にはそれで十分であると見きはめをつけたかの如くに。
 私は無意識に手をのばして枕許にあつた本を取り上げた。それはグリムのお伽噺であつた。そしてやつぱり無意識にぱらぱらと頁を繰つた。ふと扉のはしの方に何か鉛筆で書き込んであるのが目についた。
「奇蹟は信仰の副産物なり――」
 それは確に自分の字であつた。いつ何を感ずつてこんなことを書いたのであるか、今ははつきりしなかつたけれども、とにかくある思想の閃がそのとき私をこんな言葉に驅つたのであらう。私は擽《くすぐ》つたいやうな氣がしながら、やつぱり眞面目になつて、この言葉の内容を吟味しかけた。
 ちようどその時であつた。突然どつと隣室に笑聲が起つた。私はびつくりして眼を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]つた。けれども、その笑が何も自分に關係のないのを知ると、また再び靜な自分にかへつて、あてもない瞑想を續けようと身じろぎを愼んだ。
 しかし次の瞬間には、全く思ひもかけず唐突に起つた※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]イオリンの強い絃の音に、われにもなく心をとられて耳を欹《そばだ》てた。私は全くこんな田舍で、かうした樂器の音にめぐりあはうとは思ひもかけなかつた。絃の音ははじめ、一朝にしてすべての聽覺を集めて奮ひたつ如く起り、やがて恥ぢらふやうな躊躇をもつて止んだ。
『やれやれ。』
 一つのだみ聲がそれを促した。
 私は全身の期待を以て耳を欹て、いつも音樂によつて心の奧に隱れてゐるかなしみを引き出され、ひそかに涙するその心持を早くも味ひながら、※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]イオリンの音のむせび出すのを待つた。
 それはやがて起つた。ところが、はつと思ふ間に卑しげな流行歌が得々として彈き出された。しかもそれは、あの都大路を唄ひつゝさすらひ歩く墮落者の肩にあてられた※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]イオリンほどの哀愁もなく、絃の音はその情操のない主人に驅使されることの不遇を悲しむ暇もなく、たゞ義理にうたつてゐた。私はがつかりしてしまつた。
 けれども考へて見ればそんな期待を抱いた私が間違つてゐたのだ。一體あの男は半氣狂のやうな男なのだから……と、私はもう全く自分一人の世界から脱け出してしまつて、頻に隣室の事に氣をとられてゐた。彼は二三日前に一寸した腫物か何かで入院したのであるが、それからといふもの、おだやかな日和の中に襲つて來た狂風のやうに、靜な私の周圍を掻き亂してゐるのであつた。廊下を通る看護婦を呼びとめて、左程必要でもない質問をしてみたり、自分の部屋を間違へていきなり[#「いきなり」は底本では「いきなりう」]私の部屋に飛び込んだりする。彼はこの近在の物持の息子で、大分この町の所謂上流にも勢力があるらしかつた。いろいろな見舞の客が出入した。そして絶えずひとりぼつちでゐる事の出來ないやうに、必ず二三人の取卷を必要とした。その連中は、若い小學校の教員とか、少し新しがつた事の言ひたい役場の書記とか言つたやうな者達であつた。彼等は毎晩のやうにやつて來た。そしてその金持の息子を圍んで、彼を煽動したり賞讃したりしながら、値の高い葡萄酒などを振舞はせた。
 思ひ出したやうに手に取つた樂器は、また思ひ出したやうに置かれてしまつたらしく、ふつつりとやんでしまつた。
『寒いなあ。』
 誰かゞ火鉢を掻きほじつたらしく、ぱちぱちと炭のはねる音がした。
『神崎は遲いね。』
『いつたい何時頃ですか、もう?』
『……八……時四十七分。』
『時に、君は子供が何人あるんだつけ?』
『三人半です。』
『半とは……?』
『半分だけ出來てるんです、つまり胎生五ヶ月でさ。』
『ふゝゝ、君も隨分盛んだねえ、いつも會ふ度に子供が殖えてるぢやないか、子供を作るのをたゞこれ事としてるんだらう。一體君が眞面目くさつた顏をして、修身の講義なぞをしてるのかと思ふとをかしくなるよ。』
『何しろ吾人々類の究極の目的は、アミイバの昔よりたゞ生殖にありですからね。』
『とすると、君は大に人類の目的を果してゐるわけなんだね、はつはゝゝゝ。』
 私はくるりと横を向いて、背をその壁の方に向けた。手に取る如く聞える隣室の話にわづらはされまいとして、顏をしがめたり、目を閉ぢたりして見るけれど、氣にすれば氣にするほど却つて神經はあらはになつて、いつしかまた物音や話聲に觸れて行く。
『今晩は。』
 重い板戸が開いた。
『やあ、遲いぢやないか、まあはひり給へ!』
 廊下の外では着物の袖か何かを拂ふ音がして、
『なんだ、降
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