全身耳のやうになつて息を潜めてゐるのであつた。體が石のやうにつめたく固くなつてゐた。
 一體誰もその女を助けようとはしないのだらうか?
『汽車に轢かれるつもりかも知れないね。』と、暫くして一人が云ふ。
『なあに、大丈夫だよ、そんなに滅多に死なれるもんか!』
『併しどうだかわからないよ、何しろ笑談ぢやあんなところをうろついてゐられないからね。』と、それを振り捨てゝ來た男の聲は言つた。
『なあに、それあ死なうと思つてるのはほんたうかも知れないが[#「ないが」は底本では「ないか」]、幾らさう思つたつて、さう造作なく死なれるもんぢやなあいよ[#「なあいよ」はママ]。汽車がごうとやつて來て見給へ、恐しくなつて急に目がさめてしまふよ、打つちやつて置いたつて大丈夫さ、誰だつて命の惜しくない者はないからね、いざとなるとやつぱり考へるよ。』
『考へたら勿論死ねないさ。併し、ほんとに死ねる時には、そんな考へるなんて事がないんぢやないのかね、女なんか殊に思ひつめて飛び込むんぢやないのかなあ。』
『そんなのはよつぽど死神にとつつかれてゐるんだ、そしてそんな奴は生きてたつて仕樣がない、どんどん死んぢまつていゝんだ!』
『何しろ今に十時の上りが來るよ!』
 そして人々は變に乾いたわらひ聲をあげた。
『いつか……二三年前の事だつたが、公園の後の鐵道に男が一人ひつかゝつたんですね、無論自殺です。その時あとでその男が麥畑の中にしやがんでゐたのを見たといふ者があつて、そこに行つて見ると、煙草の吸殻が十本ばかり落ちてゐたつていふんですな。こんなのを見ると、いよいよとなつて飛び込む前に、隨分死なうか死ぬまいかと考へるものらしいつて、その時立ち會つた巡査が言つてましたよ。何しろ……』
『あ! 汽車ぢやないか?……』と、誰かゞ言つた。
 人々は默つて耳を欹てた。
『風の音だよ!』
 いかにも、少し風が出たらしく、地上に大きく轉んで立木に當る音が、やがてさらさらと音をたてゝ引いて行つた。
 吾等、死の傍觀者たち[#「たち」は底本では「だち」]!
 私の心はひどくくるしめられてゐた。
 今一人の女が、暗い闇の中を、吹雪の中を、死と生との不確實な境界線を彷徨してゐる。彼女の夢心地を僅に現實にかへすものは、その背に泣き叫ぶ子供の聲であるけれども、しかも彼女はその痛さに刺戟されて、ますます夢の中に己の取らうとしてゐる道を固執する。誰も彼女を見てゐる者がない、そして誰も救を求むる子供の聲に耳を藉《か》す者がない。よしや彼女の覺悟が一時の思ひつきであるとしても、はづみはどんな完全な機會をその死に與へようとも限らないではないか。
 吾々は人が決して生きる事が不可能でないのに死なうとしてゐる時、もしくは死ぬかも知れない時、十分に人力の及ぶ範圍を持ちながら袖手傍觀してゐていゝものであらうか。或は人の運命といふものは、私達の盲目な力によつて左右され得るものではないかも知れないけれども、また大きな運命の繰る道具として、ある一つの運命にかゝりあふことがないとも限らない。よしんばその己の役目でもない役目に飛び出したとして、「お前の知つたこつちやない!」と、不可知の力から叱りつけられ嘲笑はれた場合には、その時こそ初めて首を垂れて引き下ればいいわけではないだらうか。初めから「どうならうと私の知つたことではない。」とすましてゐるのは、謙遜には似て、却つて運命の意志を忖度し、窺ふことである、そしてそれは何といふつめたい態度であらう!
 私はこんなことを考へてゐた。それは私の良心に打つ早鐘であつた。そしてひとりで、隣室の誰一人もがその助力に取りかゝらうとしないのに腹をたてゝ焦慮した。けれども、それはやがて正當に己にかへるべき自責であつた。人はともあれ、もしそれ程切實に一つの生命を尊ぶならば、汝の愛がそれほど深い愛であるならば、自分こそは何物をも措いて彼女の後を追ふべきである。そしてその事は決して一刻も猶豫すべきではない。
 けれども私は病氣であつた。併し歩けない程ではないと私の良心はいふけれども、それでも長い長い間の辛棒の揚句、やつとこの頃になつて院内の散歩を許されるやうになつたのだのに、どうして夜中、しかもこんな吹雪の中を出かける事が出來よう、明日からまた早速發熱のために苦しまなければ[#「なければ」は底本では「なけれは」]ならないではないか。そしてそれが何にならう、たゞそれは折角私を癒した者への、この上もない忘恩の仕業に過ぎないではないか?
 またある心はいふ。それは或はさうかも知れない、けれども奇蹟が信仰によつて生じる事をお前が眞實に信ずるならば、今の場合何もその結果を想像して心配するには當らないではないか、お前が一つの生命を尊び、それを救ふために爲す行爲は、また必ずお前の生命をも尊び救ふであらう。お
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