前の良心は歌でも唄ふやうに理想を語るけれども、恰も當然の如くにその實行を避けるのだ。
全く、どうしたといふのだらう、私の體は千斤のおもりでもつけられたやうに重く、生きながら死んだやうに、身じろき一つしないのである。私はたゞ死馬を鞭つやうに自分を責めさいなむ。もしも私がほんたうに健康の體であつたならば……そしたら恐らくはそつとこゝを脱け出して、恐怖におびえつゝも、ともかくそこらを搜し廻つたであらう。けれども、さう思ふことは要するに今のこの怠惰な心の辯解に過ぎない、私はやつぱり現在の自分を十分に責め得る。持たでもいゝ良心ゆゑに私は責められる。凡そ人が道義の念に燃え、そしてその事に正しい肯定と喜悦とを感じながらそれを實行に移す時、かくも私の如く臆劫で、そしてその事に、ある羞耻の念すらも感ずるものだらうか?
私は苦しんだ、そして、苦しかつた。自分の良心の不徹底ゆゑに苦しかつた、そしてある瞬間はまた、そんなに苦しむ事が愚しいやうな、一寸笑つてやりたいやうな氣もした。たゞ依然として私の體は重かつた。
それからどの位の時間が經つたか私は知らない。突然、
『あゝ汽車が來た!』といつた隣室の聲にぎつくりして私は耳をすました。
今度こそそれは眞實であつた。一寸風の音かともまがふやうであるけれど、ごとごとごとと一つの調子を作つて、ある時は高く、ある時は低く、遠くから近くへ、更けて行く夜の闇の底を縫つて、その物音は走つて來る。しかもなほ天と地は默々として靜である。それは一體極度の傍觀なのであるか、それとも極度の干渉なのであるか?……
言ひ合せたやうに隣室の話聲がぴつたり止つた。そしてその誰もが、闇を裂いて鳴り渡る非常汽笛の音を恐しく待ち受けるやうに、しいんとした間を作つた。
私の體は熱くなつた、そしてやがてつめたくなつた。私は固くなつて、たゞ何者にともなく、何事をともなく、祈り願つた。それは、危い一つの命のためによりは、自分の良心の苛責から釋放される事を懇願するためにのやうであつた。
……無關心な響を殘して汽車は通り過ぎた。そして何事もなかつた。やつと手足の緊縛を許された罪人のやうに、私は萎えた體を起して、立つて窓を明けた。光は流れて斜に庭の一部分と隔離室の建物の側面とを照した。地は既にほんのりと白くなつてゐた。そして時折風に亂れながら、おとなしく、つゝましく雪が降つてゐた。
『なあんだ!』と、あくびまじりの聲が言つた。
『やつぱり死ねないものとみえるね。』と、惜しい事をしたといはぬばかりの調子の聲が言つた。
『だから僕が言つたぢやなあいか[#「なあいか」はママ]、大丈夫死にやしないよつて、眞面目に考へるだけ馬鹿な話さ!』
『しかし、今はやれなかつたかも知れないが、この次のでやるかも知れないよ。』
『なあに、大丈夫、それ[#「それ」は底本では「それれ」]よりも今頃は家に歸つて、おゝ寒かつたなんて言つて燒芋でも喰つてるかも知れないよ!』
そして人々は哄笑した。
私は昨夜熟睡が出來なかつた。どうやら深い眠に落ちかけた時でも、轟と地を這ふ汽車の響が耳に入ると、おぼろな意識の底からある懸念が頭を擡げた。さうして私は幾度か寢返を打つた。明けがたになつて漸く、短くはあるが眞の眠を眠つたやうであつた。
今朝になつて、私はほのかな温味の中に、ぽつかりと目を覺した。そして、「たうとう無事に濟んだ!」といふ明な意識は私を非常に幸福にした。私は重荷でも下したやうに身の輕くなつてゐるのを覺えた。部屋の中はまるで紙をはがしたやうに明るく白くなつて、いつの間にか掃除女の入れて行つた火鉢の火がまつ赤に燃え、ある部分は早くもその表面を灰にしながら、部屋の中を暖めてゐた。鐵瓶の湯は煮えたち、かはいらしいおちよぼ口から揚げる湯氣に陽炎がたつてゐる。
私はつめたい疊を踏んでいきなり窓を開けた。――おゝ、なんといふそれは美しい眺であつたらう! 雪はすつかりあがつてゐた。さうしてあらゆる地と、丘と、草木と、建物とが、この上もなく清く洒した布で蔽はれたやうに、さうして何もかもが清められたやうに、靜に息づいてゐる。その見るかぎりの白さには全く思ひもかけぬ青空が、驚異そのものゝやうに瞬き、さうしてどこからともなくさす朝の日の輝が、やんわりとそれらを包んでゐる。何といふ今朝の、このすべてが清々と美しく輝いてゐることであらう!
さうだ、それにちがひない、それは昨夜のくるしみによつて贏《か》ち得た朝であるから……でなければ、それは單に雪のあしたの眺に過ぎないであらう……私は奇蹟を見たのだ。
底本:「叢書『青踏』の女たち 第10巻『水野仙子集』」不二出版
1986(昭和61)年4月25日復刻版第1刷発行
底本の親本:「水野仙子集」叢文閣
1920(大正9)年5月3
前へ
次へ
全6ページ中5ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
水野 仙子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング