間違つてゐたのだ。一體あの男は半氣狂のやうな男なのだから……と、私はもう全く自分一人の世界から脱け出してしまつて、頻に隣室の事に氣をとられてゐた。彼は二三日前に一寸した腫物か何かで入院したのであるが、それからといふもの、おだやかな日和の中に襲つて來た狂風のやうに、靜な私の周圍を掻き亂してゐるのであつた。廊下を通る看護婦を呼びとめて、左程必要でもない質問をしてみたり、自分の部屋を間違へていきなり[#「いきなり」は底本では「いきなりう」]私の部屋に飛び込んだりする。彼はこの近在の物持の息子で、大分この町の所謂上流にも勢力があるらしかつた。いろいろな見舞の客が出入した。そして絶えずひとりぼつちでゐる事の出來ないやうに、必ず二三人の取卷を必要とした。その連中は、若い小學校の教員とか、少し新しがつた事の言ひたい役場の書記とか言つたやうな者達であつた。彼等は毎晩のやうにやつて來た。そしてその金持の息子を圍んで、彼を煽動したり賞讃したりしながら、値の高い葡萄酒などを振舞はせた。
思ひ出したやうに手に取つた樂器は、また思ひ出したやうに置かれてしまつたらしく、ふつつりとやんでしまつた。
『寒いなあ。』
誰かゞ火鉢を掻きほじつたらしく、ぱちぱちと炭のはねる音がした。
『神崎は遲いね。』
『いつたい何時頃ですか、もう?』
『……八……時四十七分。』
『時に、君は子供が何人あるんだつけ?』
『三人半です。』
『半とは……?』
『半分だけ出來てるんです、つまり胎生五ヶ月でさ。』
『ふゝゝ、君も隨分盛んだねえ、いつも會ふ度に子供が殖えてるぢやないか、子供を作るのをたゞこれ事としてるんだらう。一體君が眞面目くさつた顏をして、修身の講義なぞをしてるのかと思ふとをかしくなるよ。』
『何しろ吾人々類の究極の目的は、アミイバの昔よりたゞ生殖にありですからね。』
『とすると、君は大に人類の目的を果してゐるわけなんだね、はつはゝゝゝ。』
私はくるりと横を向いて、背をその壁の方に向けた。手に取る如く聞える隣室の話にわづらはされまいとして、顏をしがめたり、目を閉ぢたりして見るけれど、氣にすれば氣にするほど却つて神經はあらはになつて、いつしかまた物音や話聲に觸れて行く。
『今晩は。』
重い板戸が開いた。
『やあ、遲いぢやないか、まあはひり給へ!』
廊下の外では着物の袖か何かを拂ふ音がして、
『なんだ、降
前へ
次へ
全11ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
水野 仙子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング