を固執する。誰も彼女を見てゐる者がない、そして誰も救を求むる子供の聲に耳を藉《か》す者がない。よしや彼女の覺悟が一時の思ひつきであるとしても、はづみはどんな完全な機會をその死に與へようとも限らないではないか。
吾々は人が決して生きる事が不可能でないのに死なうとしてゐる時、もしくは死ぬかも知れない時、十分に人力の及ぶ範圍を持ちながら袖手傍觀してゐていゝものであらうか。或は人の運命といふものは、私達の盲目な力によつて左右され得るものではないかも知れないけれども、また大きな運命の繰る道具として、ある一つの運命にかゝりあふことがないとも限らない。よしんばその己の役目でもない役目に飛び出したとして、「お前の知つたこつちやない!」と、不可知の力から叱りつけられ嘲笑はれた場合には、その時こそ初めて首を垂れて引き下ればいいわけではないだらうか。初めから「どうならうと私の知つたことではない。」とすましてゐるのは、謙遜には似て、却つて運命の意志を忖度し、窺ふことである、そしてそれは何といふつめたい態度であらう!
私はこんなことを考へてゐた。それは私の良心に打つ早鐘であつた。そしてひとりで、隣室の誰一人もがその助力に取りかゝらうとしないのに腹をたてゝ焦慮した。けれども、それはやがて正當に己にかへるべき自責であつた。人はともあれ、もしそれ程切實に一つの生命を尊ぶならば、汝の愛がそれほど深い愛であるならば、自分こそは何物をも措いて彼女の後を追ふべきである。そしてその事は決して一刻も猶豫すべきではない。
けれども私は病氣であつた。併し歩けない程ではないと私の良心はいふけれども、それでも長い長い間の辛棒の揚句、やつとこの頃になつて院内の散歩を許されるやうになつたのだのに、どうして夜中、しかもこんな吹雪の中を出かける事が出來よう、明日からまた早速發熱のために苦しまなければ[#「なければ」は底本では「なけれは」]ならないではないか。そしてそれが何にならう、たゞそれは折角私を癒した者への、この上もない忘恩の仕業に過ぎないではないか?
またある心はいふ。それは或はさうかも知れない、けれども奇蹟が信仰によつて生じる事をお前が眞實に信ずるならば、今の場合何もその結果を想像して心配するには當らないではないか、お前が一つの生命を尊び、それを救ふために爲す行爲は、また必ずお前の生命をも尊び救ふであらう。お
前へ
次へ
全11ページ中8ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
水野 仙子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング