ゆくのを悟つてからは、ふつつりと思ひ諦めたやうに、彼女は絶えてものを書き綴るといふ事がなかつた。さうしてその折々に浮んで來るさまざまな思を、その折々の去來にまかして、語る人もない故郷の寂しい田舎で堅く口を結んで一年あまりの年月を送つたのであつた。この「響」はその間に書かれたものらしく、日記やその他の書き反古は前にすべて燒かせてしまつたとかで、これだけがやつと枕許から發見されたのであつた。それは大方みな白紙であつた。それは彼女の日記でもあれば、感想録でもあるところの、意味の深い白紙であつた。私がその夫なる人と共にこの手帳をひらいて見た時、めくつてもめくつても出て來る白紙は、却つてあのをはりに近い頃の沈默と微笑とを、それからそれを獲るまでの長い長い間の苦悶と葛藤とを、最もよく雄辯に語つてゐるとしか思はれなかつた。たゞこの手帳のおしまひの方に、恰も何かの例外のやうに、次に録するやうなものが全文書き込まれてあつた。それは彼女の從姉へと書かれたものであつた。それを見ると、現代の相當な教育を受けたある年輩の女の、妻の、さうして死といふものをみつめてゐる人の、ある心持がしみじみわかるやうに思へるので
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