たか私はようく知つてゐます。それだのに人々はもう先刻から外に出てあなたを待つてゐました。さあと促されて、一歩片足があの火屋の閾の外に出た時、『わつ!』といつてあなたは突然體を二つに折つてしまひました。たうとうかなしみの極で堤が切れてしまつたのでしたね。その刹那あなたの程近にゐた私は、いきなり自分も共にわつとなつて、あなたを抱きしめたいと思ひました。けれどもやつぱりそれを堪へました。あなたをしてそこで思ふさま泣かせる事の出來ないのを[#「出來ないのを」は底本では「出來なないのを」]口惜しくかはいさうに思ひながら、私はたゞ默つて、冷く瀧のやうに流れるものを拭ひもあへずに、あなたの袂の先を掴んで思ふさまそれを握りしめました。その袂を強く引く事すらも敢てしなかつた私を、ハンカチでぴつたりと顏を押へてゐたあなたは恐らく今まで御存じがなかつたでせう。あなたが顏をあげた時には、みんながびつくりしてこちらを振り向いてゐましたので、佐瀬家の親戚としては全く存在を認められない位の私が、こんなにも泣いてゐるといふ事を恥かしく隱すやうな氣持で下を向いてゐましたから。その時は私の持つて出たハンケチと鼻紙とは、殆どもう用をなさなくなつてゐました。それで私は暗いところに行くと、しきりに顏を手で拂ひ指で拭ひしてゐました。
四
あなたに取つてこれはよしない事を言ひ出したのかも知れませんね、けれども何も彼も私に取つてはお名殘であるといふ事によつてどうか許して下さい。毎日かうして少しづつ少しづつなけなしの精力を盡して書き續けたのも、遺して行く人のために殘る思がそれをさせるのです。愚にも夫に先だたれるものとばかり思つてゐた私が、二年とたゝぬ間に思ひもしなかつたこんな病氣に罹つて、今はその命も消えゆく燈火のしづかなゆらぎをしてゐるとは、今更に寂しい微笑がこの色褪せた唇にのぼります。かはいさうなものは人間ですね、なんにも知らないで、ほんとになんにも知らないであくせくと……けれども、今はそれでいゝのだといふ事がやうやくわかりかけました。自分の運命を知るやうになつてからはもうおしまひです、それを確實に知るやうになつては。今の私ですらも、まだまだどうかすると萬一を思ふ心があればこそ、かうして人間のお仲間入をしてゐる譯なのでせうが、死ぬ事を知るのではなくて、死そのものを――それこそあの捕捉すべからざるものを――しかと知り得る時には、人はもうその死に融和し、合體し、いやいや既に「死」そのものとなつてゐます。「死す」といふ事は何といふ簡明な、それでいて[#「それでいて」は底本では「それでて」]動かす事の出來ない、かはりを用ゐる事の出來ない力でせう、間一髪を入れない、迅速な、明確な、おごそかな、極めて弱くて極めて強い力ではありませんか……「死す。」
死といふ事を無暗に問題にすると思はないで下さい、それを考へないではゐられないのだと思つて下さい、自分の爲にも亦あの人のためにも。私自身についてはどうやら解決がついたと思つてゐます、それが間違つてゐるか間違つてゐないかは別問題として。たゞ私の亡いあとのあの人のために、私は今さまざまに思ひ量つてゐます。恐らくこれは餘計な事でせう、來年の事を言つてすら鬼が笑ふと云ふのに、まして死にゆく者が生きて殘る人の生活に干渉するなんて、ほんとにいらざるおせつかいです。ですけれども、さう思ひながらやつぱりいろんな事を考へます。自分でもそれが空想で、決して事實はそんな風になつてゆくものではないといふ事を百も承知しながら。ではそれは私の遊なのでせうか、いえいえ決してさうでは[#「さうでは」は底本では「さううでは」]ありません。たゞ私は、せめてはあの人の上にかくあつてほしいと思ふ事を思ふばかりなのです。それを願ひはするけれども、神樣にだつて運命にだつてそれを請求しようとはさらさら思ひません。瞑するものはたゞ目をつぶりさへすればそれでいゝではないか、その默從の外に私の爲すべきことはない筈と、頭ではよく心得てゐますもの。
けれども百合さん、その時が來るまでは、やつぱり哀れな人間の本性として、とやかくくだらぬ思ひやりや思ひ過しをするものだと見えます。氣にしないといひながら氣になるのですね、何だかあの人の姿が寂しさうです。春になつたらどうしよう、夏が來たらどうするだらう、秋が來たら、冬になつたらと、些細な日常生活の事まで、自分がない後の事を氣にする私を笑はないで下さい。親が無くても子は育つといふ譬がある位ですのに、殊に大の男一人を何と心得てゐるのだと人は笑ふかも知れません、けれども百合さん、どうかあなたゞけはそれを笑はないで下さいな。
つくづく省れば、私はあの人に取つて決してよい妻ではありませんでした[#「ありませんでした」は底本では「ありまん
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