でした」]。それにも拘らずあの人は當分寂しくなるでせう。幸か不幸か私達の間は一人の子供すらもなかつたので、あの人は全くのひとりぼつちとなります。自分が愛された事を信じてやすらかに眠つてゆく事の出來る私は、死ぬといふ事が自分一人易きにつくやうで、何だかそれが心苦しくて仕方がありません。せめては私の亡い方が、あの人の生活に取つて、藝術にとつて、幸福であつてくれるやうに! さうでなかつたら、ではどうかよりよき者があの人のために與へられるやうに! 私は少しも無理な心持なしにそれを願つてゐます。そしてもしも死後の生活に於てこの世の消息を知り得る事が出來たならば、あの人がどんなに他の女を愛しようとも、それがあの人を慰め、また幸福にするのならば、私は喜んでその二人のために祈るでせう。
 爭も、嫉妬も、憎しみも、さうした陰なる醜い感情は、命に先立つてだんだん私の肉體をはなれつゝあります。すべてが私を見はなして行く……たゞどうかこの愛だけは、最後までも、願はくばその骸にまでも踏みとゞまつてくれ!
 寂しい世ではありました。私に取つてそれは廿六年間、樂しい事も嬉しい事もすべてつきくるめて人世は寂しかつたと思ひます。私達は又貧しかつた。けれども燃えて盡きる事のない愛の焔でお互が温め合ひました。ある時は濕り、ある時は突風の危機に遇つて、僅に消え殘つた事もありますけれど、そしてそれを私達は最初ごくわづかしか[#「わづかしか」は底本では「わつかしか」]持つてゐませんでしたけれど、いろいろな艱難や寂しい目に遇ふ度にだんだん、だんだん[#「だんだん、だんだん」は底本では「だん、だんだんだん」]焔は強められて行きました。お互に援けあひ暖めあはないで、どうしてこのなやみの多い世に滿足して生きる事が出來ませう、それだのに今あの人はその伴侶を失はうとしてゐます。

        五

 あなたの籍も、たうとう籾山にかへりましたのですつてね、勿論弘一さんを喪つてからの佐瀬家にあなたの執着はない筈ですけれど、夫の姓を捨てる事の苦しさ寂しさはどんなであつたらうかとお察してゐます。あの家は決して操正しい寡婦のとゞまるに適當した家ではなかつたけれど、體は實家に寄せながらも、いつまでも佐瀬の姓をあなたは名乗るつもりでゐらしたのにね。あなたの行末を思ふ伯母さん從兄《にい》さんの深慮は、既にあの不幸當時からその事を考へてゐらしたのでせう。いつぞや伯母さんが弘一さんのお墓の前でかう仰しやいました。『彼女《あれ》がね、この石碑をたてる時に、どうしても自分の名前も一所に刻むのだと言ひ張つて聽かなかつたんですよ。ですけれども純太郎が、それは斷じていけないつてね、許しませんでしたけどもね……』伯母さんも目にいつぱい涙を溜めてゐらしたつけ。
 思ひのまゝにならぬのが世の中だとは言ひながら、よしない再縁のすゝめに困じ果てゝ、獨立の道をひそかに捜してゐるといつかのあなたのお手紙にありましたが、ほんとにあなたの運命もどうなるのでせう、まだ達者で元氣なお母さんと立派な兄さんとを持ちながら、あなたもやつぱり寂しい人ですねえ。到底自分には忘れる事の出來ぬ亡き人の思を抱いて、再び人に嫁がうとは思はないと仰しやつてゐるあなたの心を私は嬉しく思つてゐます。けれどもそれは何といふ悲しく寂しい生涯でせう、あなたがその境涯に堪へ得るかどうかなどゝいふ事は決して問題にしないでも、私はあなたの再婚に就いて考へてみたいやうな氣がしてゐます。
 もしもねえ百合さん、あなたが大事に大事に胸に抱いてゐるその思に、少しも手を加へる事をしないでも、そしてその爲にあなたの良心が責めらるゝ事なしに出來る結婚があるとしたら、それに就てはどうお思ひになりますか。勿論さうした場合は、やはり同じやうな心の状態にある人との間に於てのみ可能な事です……明敏なあなたは[#「あなたは」は底本では「あたは」]もう既に私が何を言ひたいと思つてゐるのかお察しになつたでせうね、どうか惡く思はないで下さいな、そして願はくば死者の口に耳を寄せてものを聞かうとするやうな注意をもつてこの事を考へて下さいませんか。はじめからそれが無理な事だとはわかつてゐても、無理は無理かも知れませんけれど、しかしそれは理不盡な事でも、また決して不自然な事でもないだらうと私には思はれるのです。運命の仕事には決して不自然といふ事がありません。たとへ不自然に見える事があつたとしても、よくよく辿つてみれば、その不自然らしく見えるのが却つて最も自然な状態である場合がよくあります。
 私は今運命といふ言葉を使ひました。さうした考が、恰も暗示のやうに私の腦裡を過ぎていつたものですから……けれどもこれを具體的な話にして見た時に、何といふそれは突飛な思ひつきでせう、もしも伯母さんがこんなことをお聞きに
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