嘘をつく日
水野仙子

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)思の外《ほか》

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)今|此地《ここ》に

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、底本のページと行数)
(例)※[#「手偏に劣」、第3水準1−84−77、74下9(上中下は本文の段組)]
−−

 患者としてはこの病院内で一番の古顏となつたかはりに、私は思の外《ほか》だんだん快《よ》くなつて行つた。
 もう春も近づいた。青い澄んだ空は、それをまじまじと眺めてゐる私に眩《まぶ》しさを教へる。さうしてついとその窓を掠《かす》めて行く何鳥かの羽裏がちらりと光る。私はむくむくと床をぬけ出して、そのぢぢむさい姿を日向《ひなた》に曝《さら》し、人並に、否病めるが故に更により多くの日光を浴びようと端近くにじり出る。或は又新しい心のあぢはひを搜《さが》しに、ぶらりぶらりと長い廊下を傳つて行く。たとへば長い間寢ながら眺めてゐた向側の病室の前を歩いて見る事、または階下に降りて見るたのしみ、幾月かの間あこがれてゐた土を踏んでみる事の愉悦、しかしそれらの事が毎日とどこほりなく行はれなければこそ、その期待のたのしみは續く……蝸牛《かたつむり》は木の葉のゆらぎにでもその觸角を殼の中に閉ぢ込めなければならない。かくして私もある日は部屋に閉ぢて、しづかにその障害の去るのを待ちつつ横《よこたは》るのである。それは大抵わづかではあるが、熱とそれから胸部のいたみとのためであつた。
 けれども月日は私の元氣に後楯《うしろだて》をした。診察室の前の大鏡に映る、ひつつめ銀杏《いちやう》の青白い顏は、日に日に幾らかづつ色を直して行つた。長い間には病院の内も外も私の散歩になれて、新しい感味が單純な頭を喜ばす事は少くなつた。それでもなほたつた一人の無聊《ぶれう》さに――ある時はそれが無上にやすらかで嬉しかつたけれど――歩きなれた廊下をぶらりぶらりとあてもなく私は病室を出かけて行く。
 かうした日のつづきに、私がふと四月一日が來るのに氣がついて喜んだのは、その十日ばかりも前の事であつた。四月一日、それは藥を飮む事と、喰べることと、眠ることと、それから遊ぶ事より外には能のない人間にとつては、まことにお誂向《あつらへむき》の新規ななぐさみであつた。 All fools day ! 一年の中にただこの日だけ嘘が許される程、常に人々の心に正直が保たれてあるとも思へないけれど、それはともかく、親しい人達を大つぴらに瞞《だま》したりかついだりする事が出來るのは面白い事に違ない。この幾年かの私の辛慘な生活に於ては、なかなか思ひ出せもしなかつた、また思ひ出してもそれを實行する程の興味を伴はなかつた「四月馬鹿」が、漸く死の虎口を遁《のが》れて來た恢復期の門のあたりで、人世の嘘を享樂すべく私を誘つたのであつた。
 私はうつかりしてその日を忘れないやうに、またどんな方法で皆をかついでやらうかなどと考へながら四月を待つた。もうかれこれ二百日近くも病院で暮してゐるので、院長をはじめ内科の醫員や看護婦達とは隨分したしみが出來てゐた。
「先生! 四月一日がもうぢき參りますから油斷してらつしやらないやうに……」
 ある日私は最後の診察室の寢臺を下りながら、笑ひ笑ひ院長に向つて言つた。
「さう、四月ももうぢきですね、全くぐづぐづしてをられないなあ!」と、若い院長は立ち上りながら、曇硝子《くもりガラス》の外の明るい日ざしに眼をやつた。
「瀬川さんも、たうとう病院で花見をするやうになりましたね、もう二週間もしたら立派に咲きますぜ、この模樣ぢや。……えゝえゝ瞞《だま》したつて構ひませんとも!」
 扉を排して院長は出て行つた。二人の醫員もまた晝の休息に醫局へと去つたあと、そこらの掃除を始める看護婦の津野さんと大越さんをつかまへて、私はなほも四月一日の話をする。大越さんは少しもそんな事を知らなかつたけれど、東京くるしみの津野さんは、
「さうさう、その日はどんなに嘘をついてもいいのですつてね、無禮講なんですつてね。」と言つてゐた。
 遙に那須山の煙をなびかせて、風は少しづつ經めぐつてゐたけれど、よく晴れた日が二三日續いた。さうして四月は遂に來た。地には青い草が萠えてゐる。緋鯉《ひごひ》の背の浮ぶ庭の池の飛石に、鶺鴒《せきれい》が下りて來て長い尾を水に叩いてゐる。さうして紺青《こんじやう》の空! このうるはしい天日の下に、一體何が世には起つてゐるのか?
 私はその朝、この日頃の期待にも似ず、ぼんやりと寢床の中に一日の午前を費《つひや》しかけた。なぜかしら頭をそつとして置きたくて、一寸のあひだ體を動すのが厭《いや》だつた。
次へ
全4ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
水野 仙子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング