しばらくすると、大抵十一時半に鳴る近い寺の鐘が、一つ二つと餘韻を追つて撞《つ》き出された。
 それから私は間もなく羽織をひつかけて病室を出かけて行つた。いよいよ今日はみんなをかついでやる……さう思つて私は微笑を隱した。廊下の中途で、ふと庭の方に突き出されてある研究室の方に眼をやると、白い服の人がちらちらしてるのが硝子越に見えた。よく見るとそれは大越さんだつたので、私は先づその方へと足を向けた。
 私が研究室に入つて行つた時に、大越さんは小聲に唱歌をうたひながら、かちかちと試驗管を觸れ合せて、しきりに尿の檢査をやつてゐた。
「大越さん!」
「は? おゝびつくりした、あら嫌だ瀬川さん! いらつしやい。」
「あなたお一人?」
「えゝ、もう厭《いや》になつてゐたところ。」
 私はあり合せた椅子の背にもたれて、ぢつと大越さんのやうすを窺《うかが》つた。大丈夫もう今日の事は忘れてゐる!
「大越さん!」
「えゝ?」
「……あなた今日の××新聞見て?」と、私はよくくだらぬ投書などの載つてる、地方新聞の名を言つた。
「いゝえ。」と、不思議さうに大越さんは私の顏を見る。
「なぜ?」
 そこで私は思ひ切つてでたらめを始める。
「出てるのね。」
「何が?」
「あなたの事がよ……」
「えゝ?」
 片つ方の手には黄色い液體を滴《したたら》した試驗管を持ち、片つ方の手のピンセットで試驗紙を挾んだまま、大越さんは全くびつくりして私の顏を見つめる。今年十九の處女らしい血色のいい顏は、見る見るまつ赤になつて、眼の中までが燃え出しさうだつた。
「嘘でせう瀬川さん。」と、何かを哀願するやうな調子であつた。
「いゝえ、まつたくですとも!」
「まあ厭だ! まあ怖い! どんな事が出てるんでせう?」
「いゝえね、一寸投書欄のところに……大體はほめてあるんだけど、一寸ひやかしたやうなところもあるの。」
 驚いたことには、今の今あんなにさつと赤くなつた顏が、私が一寸眼を伏せてゐる間に、まつ青に變つてゐるのであつた。
 それを見ると私はあまりにその處女心《をとめごころ》を亂したのが氣の毒にもなつて、
「何もそんなに心配する程のものぢやないわ、どうせいたづらですもの……まあ今日の××新聞を見て御覽なさいよ、見りやわかるわ!」
 さう言つて私は、今は仕事も手につかなくなつて、宿直室に新聞を見に行かうとする大越さんと廊下を左右に別れた。
「瀬川さん、××新聞ですね?」と、二三間行つてから、念を押すやうに、大越さんは振り返つて言つた。
「えゝさう、三面の下の方。」と、私はなほもでたらめに答へる。
 大越さんの恐怖と心配に滿ちた顏を思ひ浮べると、少し罪なやうな氣もしたけれど、またそれを笑にかへす時のことを思ふと、私は更に元氣づいて、自然と歪《ゆが》んで來る口もとを袖で押へながら、勢こんでばたばたと診察室の方へ驅けて行つた。
 ちやうど正午を少し過ぎた時分で、午前中の外來の患者は大抵歸つてしまつてゐた。藥局の前にはちらほらと藥を待つてる人が見えたけれど、廣い廊下は人影が稀になつて、そちこちの扉から出て來る白い上着の醫員や看護婦のみが、何か忙しげにどこへか消えて行く。
 いつも今時分は内科も隙《ひま》なのを知つてゐるので、忙しい院長を職務外の事に向けさせるのに、ちやうどいい折だと私はひそかに思つた。私が扉をあける、すると大きな診察机に肘《ひぢ》をついて、ある患者の温度表を見ながら、一人の醫員に何事かを獨逸語《ドイツご》まじりに話してゐる院長が、ちらとこつちを振り返る。さうしてそこに「キューピーのマザア」が(私があのおどけもののキューピーを部屋に飾つて置く所から、院長はいつもたはむれに私をかう呼んだ。)何事かを抑《お》し堪《こら》へたやうな顏をして入つて來るのを認めるであらう!……
 私は大越さんをかつぐのにうまく成功したので、すつかり調子に乘つてしまつてゐた。さうして興味に燃えながら、微笑を顏中に漂はせて、勢よく扉の把手《とつて》に手をかけてそれを引いた。
 その瞬間――私の體が入口に現はれ、私の眼が室の内部を見た時に、私は思はずそこにつつ立つたままになつてしまつた。今まで何かしらいつぱいに張りつめてゐた氣が、いきなりそこでわけもなく拔かれてしまつたのだつた。
 診察室の中には、私が待ち設けたやうに院長の姿は見えなかつた。また獨逸語の發音もなかつた。ただ不思議に緊張した無言の空氣があつた。……その氣分が不意に私の面を打つたので、自分の眼で見た事を私が了解するまでには餘程の手間が取れた。
 かなり廣く取つてある部屋の向の窓の下に、一つの寢臺がいつも横へられてあつた。今その寢臺のまはりに一人の醫員と二人の看護婦と、それから印半纏《しるしばんてん》を着た長裾の男とが集つてゐた。看護婦のうちの一人は津
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