野さんだつたけれど、私を振り向いても、いつものやうな笑顏を見せもせずに、妙に氣のつまつたやうな眞面目な顏をしてゐた。そして他の人達も、扉の音に一寸振り向きはしたけれど、すぐに寢臺の上のあるものの上に瞳を集めて行つた。
 看護婦の腕の下から寢臺の上に見えるものは、何だか小さな肉塊やうのもので、それを醫員が頻《しきり》に揉《も》んだり搖《ゆす》つたりしてゐるのであつた。それも、ある甲斐《かひ》のないものを甲斐あらせようとしてゐるやうな、一所懸命な調子であつた。私は未だ曾《か》つて人工呼吸法といふものを見たことがなかつたけれど、今ふとそれが頭に浮んだ。
 私は一寸、このままひつ返さうかひつ返すまいかと戸口で迷つた。けれどもともかく後を音もなく閉めて、足音を憚《はばか》りながら一足二足そちらに近づいて行つた。と、その途端に、
「とてもだめですな!」と、醫員は投げ出すやうに言つて、片膝乘りかけてゐた寢臺から離れた。
 私はぴくりとして立ち止つた。その時二人の看護婦も無意識に手を放したので、その腕の陰に隱れてゐた赤兒の首がぐたりと傾いた。
「えつ! だめですかつ?」
 醫員の言葉と殆ど同時位にかう叫んだ聲は、再び私の足をぴくりとさせた。
 それは、今の今まで信じてゐたものを※[#「手偏に劣」、第3水準1−84−77、74下9(上中下は本文の段組)]《も》ぎ取られて行く驚愕のきはみであつた。彼は――印半纏の男は、顏色を失《な》くして、爲すべき事を知らぬもののやうに、手をもぢもぢとさせて、こくりと唾を呑んだ。
「どうも、どうしても脈が出ないもんですものね。」
 それでも猶もう一度醫員は手を出して、青ざめた赤兒の心臟部のあたりを揉みはじめた。その運動につれて、赤兒の首はぐなりぐなりと搖れて動くのを、看護婦がそつと手で押へた。
 それはしかし一二分間、僅な期待をつないだに過ぎなかつた。
「だめだ! お氣の毒だがどうも仕樣がありませんね。」と、きつぱり今度は醫員もほんたうに寢臺の傍を離れた。
「なんとも仕樣がないでせうか?」
「えゝ、何とも仕樣がありませんね、脈があるもんなら注射つてこともありますけれど、連れて來た時には既にもう脈がなかつたんですからね……ただまだ温いだけです。」
 さう言つて醫員はさつさと手を洗ひに立つて行つた。
 一人の看護婦はその後について行つた。さうして醫員がタオルで手を拭つてゐるところへ、昇汞水《しようこうすゐ》に浸した脱脂綿を持つて來た。
「先生一寸。」と言ひながら、その上着の袖口を摘《つま》んだ。
「何だい? 大便《ゴウト》かい? ひやあ!」
 醫員は苦笑して一寸寢臺の方に眼をやつた。
 それまで男はさも途方に暮れたやうに同じ所につつ立つてゐたが、
「困つた!」と呟くと、漸く諦めたやうに死骸の側に寄つて、無器用な手付ではだけた襁褓《むつき》などを始末にかかつた。
「まだこんなに温いんですが……」と、肌に障《さは》つて見て、彼はやつぱり思切《おもひきり》わるさうに醫員の方を振り返つた。
「あたたかくともだめです。」
 醫員は再びきつぱりと言つた。それでもあまりに取りつき場のないのに氣がついたやうに、やがて言葉をやはらげて、
「どうもお氣の毒な事をしましたね……あなたのお子さんですか?」
「いいえ、私の妹の子なんですて……」
「とにかく所と名前とを聞いて置きませう。」
 醫員は椅子について、腕を伸してペンを取つた。
「名前は私の名でいいでせうか、また……」
「いいえ、その子供の名前です。」
「苗字《めうじ》は若林つていふんですが、はて名前はなんていふのかなあ……」
 男は困つたやうな顏をして頭を掻いた。
「名前がわからないんですか?」と、醫員は驚いたやうに顏をあげた。
「はあ、何ていふんだか、私もつい忙しいもんですから、その自分の子供でねえもんだから、うつかりして聞きもしなかつたんで……」
「それではあなたの家の人ぢやないんですね。」
「いえ、私の家にゐる事はゐるんです。その、ただみんな赤兒赤兒《やややや》つてばかり言つてるもんですからな、ついその……それに私は大工で、毎日仕事に出て行くもんですから……」
「困つたなあそいつあ、だがまあ分らないもんなら仕方がない……女の子でしたね、幾つです?」
「舊正月うまれだとか言ひやすから、さうしつと新の二月でごすな。」
「するとまだ六十日ばかりにしかならないんですね……どうです、今朝までほんたうになんともなかつたんですか?」
「は、私が今朝仕事に出て行く時分までは、たしかになんでもなかつたやうです。これやまづ、今年八つになる私の女の子がおぶつててこんな事になつちまつたんですが……どうも困つた事が出來つちまつた……これ一人つきり妹には子供がねいんだが……」
 彼はいかにも靜《しづか》さ
前へ 次へ
全4ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
水野 仙子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング