うに轉ばされてゐる赤兒を振り返つて、同情を求める樣に人々の顏を見廻した。
「實は何です。この子供の親父《おやぢ》は今|此地《ここ》にゐねえんです、東京さ稼ぎに行つてるんで、妹はこの子供を連れて、ひと月ばかり前に私を頼つて來たんです。今煙草工場さ働きに行つてやすがな、先刻《さつき》晝やすみに乳飮ませに連れてつて、歸つて來たばつかりなさうですから……」
「ほう、その時まで何でもなかつたんですね。」
「はあ、いつも私のお母《ふくろ》――この子供の祖母《ばば》ですな、それが守してるんすが、その今年八つになる私の娘が、おぶいたがつて泣くもんだから、ちよつくら背負《しよ》はせてやつたんだつていひやす。私もいきなり仕事場さ迎へに來られて、びつくりして飛んで歸つて、それからすぐにここさ連れて來たんでごすがな……なんでも唄なんてうたつて錢貰つて歩く女の後にくつついてゐたのを、隣のをばさんが見つけて知らしてくれたんだつていひやす、ぐたりとなつてゐたんですな、その時にやあ。」
「その時、脈があつたかどうか分らないんだね。」
「すぐにおろして氣付なんて飮ませた時にや、息ふつかへしたつていふんでごすが……」
「やうな氣がしたんぢやないのかね。とにかくもうかうなつては仕方がない。」
 醫員はペンを置いて、立ち上りざま、ズボンのかくしに兩手を差し込んだ。
「とにかく連れて歸つてくれたまへ! さうなつたものを、いつまでも置いたつて仕樣がないんだから……」
「は。」
 氣がついたやうに彼はぽくりと頭を一つ下げた。
「さあ、飯にしよう!」
 當事者以外四人の人々の胸に、多少づつの引つかかりを作つてゐた情實を、ここに截然とたち切つて、醫員は強い足取で勢よく扉を排し去つた。
「いや、どうもお世話樣になりやした!」と、朴訥《ぼくとつ》な挨拶を背後に投げて、男は溜息をつきながら自分の兵兒帶《へこおび》を解きにかかつた。さうして浮腫《むくみ》のあるやうな青ぶくれた赤兒の死骸をその肌に抱いた。
「こいつあまづ、おつ母《かあ》がまだなんにも知らねえんでゐるんだんべのに……」
 看護婦はそのよれよれの帶を拾ひ取つてやつた。彼はそれを腰に廻し、貧しい子供の上着をもつて、生ける子にするが如くその背を蔽《おほ》うてやつた。
「いや、お世話になりやした。」
 再び看護婦に挨拶を殘して、彼は遂にすごすごと診察室を出て行く……今
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