は私も、もはやここに何の用もなくなつたやうな氣がした。
「かはいさうにねえ!」
「私もう、死んでゆく人を取り扱ふたんびに、つくづくこんな職業はいやになつちまふわ!」
こんな事を言ひ合つてゐる二人の聲を後に殘して、私もまた打ち伏せられたやうな心持になつて廊下に出た。
すべてのものの結末は寂しい! たとへそれが善い事であれ、凶《わる》い事であれ、最後には必ず溜息が伴はれるではないか?
私はふと、今の先自分が何の目的をもつて、またどのやうに心を樂しませて、この診察室の扉を開いたかを思ひ起した。それは人をかつぐために、嘘をつくために、さうしてその事によつて遊戲をするためにであつた。
ところが、私が數日前から計畫し、心ひそかにその遂行を樂しんでゐた遊戲の興味は、風の前に置かれたものの匂ほどの脆《もろ》さもなく、どこかへ消え去つてしまつてゐた。今はそのなごりを心の内のどこかに潜んでゐる羞恥の念に求めるより外はなかつた。
たとへ一歳に足らぬ小さな赤兒であるからといつて、その死もまた些細なものであるとなす事はできない。その何物をも顧慮せず、何物にもわづらひされないで、靜におごそかに行はれて行く人の死の絶對な靜肅さの前に、何といふ生きたるものの遊戲はあはれに無意味なものであつたらう!
四月一日、私は以後この日のあそびを永久に葬らう! それは私にとつてもはや無意義であり、無興味である。もしも今、彼の死兒を抱いて行く兄弟を呼びとめて、
「もしもしあなた! 何もそんなに氣を落しなさるには及ばないぢやありませんか、それは嘘ですよ、笑談《ぜうだん》ですよ、御覽なさい、赤んぼはあなたの懷《ふところ》の中で笑つてるぢやありませんか! あなた、今日は四月一日ですよ!」といふことができないかぎりに於ては!
(大正七年二月「文章世界」)
底本:「現代日本文學全集85『大正小説集』」筑摩書房
1957(昭和32)年12月20日発行
入力: 小林徹
校正:野口英司
ファイル作成:野口英司
1998年7月9日公開
2001年3月3日修正
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