ルで手を拭つてゐるところへ、昇汞水《しようこうすゐ》に浸した脱脂綿を持つて來た。
「先生一寸。」と言ひながら、その上着の袖口を摘《つま》んだ。
「何だい? 大便《ゴウト》かい? ひやあ!」
 醫員は苦笑して一寸寢臺の方に眼をやつた。
 それまで男はさも途方に暮れたやうに同じ所につつ立つてゐたが、
「困つた!」と呟くと、漸く諦めたやうに死骸の側に寄つて、無器用な手付ではだけた襁褓《むつき》などを始末にかかつた。
「まだこんなに温いんですが……」と、肌に障《さは》つて見て、彼はやつぱり思切《おもひきり》わるさうに醫員の方を振り返つた。
「あたたかくともだめです。」
 醫員は再びきつぱりと言つた。それでもあまりに取りつき場のないのに氣がついたやうに、やがて言葉をやはらげて、
「どうもお氣の毒な事をしましたね……あなたのお子さんですか?」
「いいえ、私の妹の子なんですて……」
「とにかく所と名前とを聞いて置きませう。」
 醫員は椅子について、腕を伸してペンを取つた。
「名前は私の名でいいでせうか、また……」
「いいえ、その子供の名前です。」
「苗字《めうじ》は若林つていふんですが、はて名前はなんていふのかなあ……」
 男は困つたやうな顏をして頭を掻いた。
「名前がわからないんですか?」と、醫員は驚いたやうに顏をあげた。
「はあ、何ていふんだか、私もつい忙しいもんですから、その自分の子供でねえもんだから、うつかりして聞きもしなかつたんで……」
「それではあなたの家の人ぢやないんですね。」
「いえ、私の家にゐる事はゐるんです。その、ただみんな赤兒赤兒《やややや》つてばかり言つてるもんですからな、ついその……それに私は大工で、毎日仕事に出て行くもんですから……」
「困つたなあそいつあ、だがまあ分らないもんなら仕方がない……女の子でしたね、幾つです?」
「舊正月うまれだとか言ひやすから、さうしつと新の二月でごすな。」
「するとまだ六十日ばかりにしかならないんですね……どうです、今朝までほんたうになんともなかつたんですか?」
「は、私が今朝仕事に出て行く時分までは、たしかになんでもなかつたやうです。これやまづ、今年八つになる私の女の子がおぶつててこんな事になつちまつたんですが……どうも困つた事が出來つちまつた……これ一人つきり妹には子供がねいんだが……」
 彼はいかにも靜《しづか》さ
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