世界怪談名作集
鏡中の美女
マクドナルド George MacDonald
岡本綺堂訳

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)抽斗《ひきだし》には、

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一|対《つい》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)思わずふっ[#「ふっ」に傍点]と
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      一

 コスモ・フォン・ウェルスタールはプラーグの大学生であった。
 彼は貴族の一門であるにもかかわらず、貧乏であった。そうして、貧乏より生ずるところの独立をみずから誇っていた。誰でも貧乏から逃がれることが出来なければ、むしろそれを誇りとするよりほかはないのである。彼は学生仲間に可愛がられていながら、さてこれという友達もなく、学生仲間のうちでまだ一人も、古い町の最も高い家の頂上にある彼の下宿の戸口へはいった者はないのであった。
 彼の謙遜的の態度が仲間内には評判がよかったのであるが、それは実のところ彼の隠遁的の思想から出ているのであった。夜になると、彼は誰からも妨げられることなしに、自分の好きな学問や空想にふけるのである。それらの学問のうちには、学校の課程に必要な学科のほかに、あまり世間には知られもせず、認められもしないようなものが含まれていた。彼の秘密の抽斗《ひきだし》には、アルベルタス・マグナス(十三世紀の科学者、神学者、哲学者)や、コンネリウス・アグリッパ(十五世紀より十六世紀にわたる哲学者で、錬金術や魔法を説いた人)の著作をはじめとして、その他にもあまりひろく読まれていない書物や、神秘的のむずかしい書物などがしまい込まれてあった。しかもそれらの研究は単に彼の好奇心にとどまって、それを実地に応用してみようなどという気はなかったのである。
 その下宿は大きい低い天井の部屋で、家具らしい物はほとんどなかった。木製の椅子が一|対《つい》、夜も昼も寝ころんで空想にふける寝台が一脚、それから大きい黒い槲《かしわ》の書棚が一個、そのほかには部屋じゅうに家具と呼ばれそうな物は甚《はなは》だ少ないのであった。その代りに、部屋の隅ずみには得体《えたい》の知れない器具がいろいろ積まれてあって、一方の隅には骸骨が立っていた。その骸骨は半ばはうしろの壁に倚《よ》りかかり、半ばは紐でその頸《くび》を支えていて、片手の指をそのそばに立ててある古い剣の柄《つか》がしらの上に置いているのであった。ほかにもいろいろの武器が床の上に散らかっている。壁はまったく装飾なく、羽《はね》をひろげた大きいひからびた蝙蝠《こうもり》や、豪猪《やまあらし》の皮や剥製の海毛虫《シーマウス》や、それらが何だか分からないような形になって懸かっている。但《ただ》し、彼はこんな不可思議な妄想に耽っているかと思えば、また一方にはそれとまったく遠く懸け離れたことをも考えているのであった。
 かれの心はけっして恍惚たる感情をもって満たされているのではなく、あたかも戸外の暁け方のように、匂いをただよわす微風ともなり、また、あるときは大木を吹きたわませる暴風ともなるのであった。彼は薔薇《ばら》色の眼鏡を透してすべての物を見た。かれが窓から下の町を通る処女《おとめ》をみおろした時、その処女はすべて小説ちゅうの人物ならざるはなく、彼女の影が遠く街路樹のうちに消え去るまで、それを考えつづけているのである。彼が町をあるく時、あたかも小説を読んでいるような心持ちで、そこに起こるいろいろの出来事を興味ある場面として受けいれるのである。そうして、女の美しい声が耳にはいるごとに、彼はエンゼルの翼《つばさ》が自分のたましいを撫でて行くようにも感ずるのである。実際、かれは無言の詩人で、むしろ本当の詩人よりも遙かに空想的で、かつ危険である。すなわちその心に湧くところの泉が外部へ流れ出る口を見いだすことが出来ないで、ますます水嵩《みずかさ》がいやまして、後には漲《みなぎ》りあふれて、その心の内部をそこなうことにもなるからである。
 彼はいつも固い寝台に横たわって、何かの物語か詩を読むのである。のちにはその書物を取り落として、空想にふける。そうなると、夢か現《うつつ》か区別がつかない。向うの壁がはっきりとわかってきて、あさ日の光りに明かるくなった時、かれもまた初めて起きあがるのである。そうして、元気旺盛な若い者のあらゆる官能がここに眼ざめてきて、日の暮れるまで自由に読書または遊戯をつづけるのである。昼の大きい瀑布に沈んでいた夜の世界がここにあらわれてくると、彼のこころには星がきらめいて、暗い幻影が再び浮かんでくるのである。しかもそんなことを長く続かせるのはむずかしい。遅かれ早かれ何物かが美しい世界へ踏み込んで来て、迷える魔術師を跪拝《きはい》せしめなければならないのである。

 ある日の午後の黄昏《たそがれ》に近いころであった。彼は例のごとく夢みるような心持ちで、この町の目貫《めぬき》の大通りをあるいていると、学生仲間のひとりが肩をたたいて声をかけた。そうして、自分は古い鎧《よろい》をみつけて、それを手に入れたいと思うから、裏通りまで一緒に来てくれないかと言った。
 コスモは古代および現代の武器については非常にくわしく、斯道《しどう》の権威者とみとめられていた。ことに武器の使い方にかけては、学生仲間にも並ぶ者がなかった。そのなかでも、ある種の物の使い方に馴れているので、他のすべての物にまで彼が権威を持つようにもなったのである。コスモは喜んで彼と一緒に行った。
 二人は狭い小路に入り込んで、ほこりだらけな小さい家にゆき着いた。低いアーチ型の扉《ドア》をはいると、そこには世間によく見うける種《しゅ》じゅの黴《かび》くさい、ほこりだらけの古道具がならべてあった。学生はコスモの鑑定に満足して、すぐその鎧を買うことに決めた。
 そこを出るときに、コスモは壁にかけてあるほこりだらけの楕円形の古い鏡に眼をつけた。鏡の周囲には奇異なる彫刻があって、店の主人がそれを運んだ時、輝いている灯に映じても、さのみに晃《ひか》らなかった。コスモはその彫刻に心を惹《ひ》かれたらしかったが、その以上に注意する様子もなく、彼は友達とともにここを立ち去ったのである。二人は元の大通りへ出て、ここで反対の方角に別れた。
 独りになると、コスモはあの奇異なる古い鏡のことを思い出した。もっとよく見たいという念が強くなって、彼は再びその店の方へ足をむけた。彼が扉を叩くと、主人は待っていたように扉をあけた。主人は痩せた小柄の老人で、鉤鼻《かぎばな》の眼のひかった男で、そこらに何か落とし物はないかと休みなしにその眼をきょろつかせているような人物であった。コスモは他の品をひやかすようなふうをして、最後にかの鏡の前へ行って、それを下ろして見せてくれと言った。
「旦那。ご自分で取ってください。わたくしには手が届きませんから」と、老人は言った。
 コスモは注意してその鏡をおろして見ると、彫刻は構図も技巧も共に優れていて、実に精巧でもあり、また高価の物でもあるらしく思われた。まだその上に、その彫刻にはコスモがまだ知らない幾多の技巧が施されていて、それが何かの意味ありげにも見えた。それが彼の趣味と性格の一面に合致しているので、彼は更にこの古い鏡に対して一段の興味を増した。こうなると、どうしてもこれを手に入れて、自分の暇をみてその縁《ふち》の彫刻を研究したくなったのである。
 しかし、彼はこの鏡を普通の日用にするような顔をして、これはずいぶん古いから長く使用にたえないだろうと言いながら、その面《おもて》の塵《ちり》を少しばかり拭いてみると、彼は非常に驚かされたのである。鏡の面はまばゆいほどに輝いていて、年を経たがために傷んでいる所もなく、すべての部分が製作者から新しく受け取ったと同様に、清らかに整っているのである。彼はまず主人にむかってその値《あた》いを訊《き》いた。
 老人は貧しいコスモがとても手を出せないような高値を吹いたので、彼は黙ってその鏡を元のところに置いた。
「お高うございましょうか」と、老人は言った。
「どうしてそんなに高いのか、理屈がわからないな」と、コスモは答えた。「わたしの考えとはよほどの距離があるよ」
 老人は灯をあげて、コスモの顔を見た。
「旦那は人好きのするかただ」
 コスモはこんなお世辞にこたえることのできない男である。彼はこのとき初めて老人の顔を間近に見たのであるが、それが男だか女だか分からないような、一種の忌《いや》な感じを受けた。
「あなたのお名前は……」と、老人は話しつづけた。
「コスモ・フォン・ウェルスタール」
「ああ、そうでしたか。なるほど、そういえばお父さんに肖《に》ておいでなさる。若旦那、わたくしはあなたのお父さんをよく存じておりますよ。実をいうと、このわたくしの家《うち》の中にも、あなたのお父さんの紋章や符号のついた古い品がいくつもあります。そうでしたか。いや、わたくしはあなたが気に入った。それでは、どうです。言い値の四分の一で差し上げることにいたしましょう。但し、一つの条件付きで……」
 それでもコスモにとっては重大の負担であったが、そのくらいならば都合が出来る。ことに途方《とほう》もない高値を吹かれて、とても手がとどかないと思ったあとであるから、いっそうそれが欲しくなった。
「その条件というのは……」
「もしあなたがそれを手放したくなったらば、初めにわたくしが申し上げただけの金をわたくしにくださるように……」
「よろしい」と、コスモは微笑しながら付け加えた。「それはまったく穏当な条件だ」
「では、どうぞお間違いのないように……」と、売りぬしは念を押した。
「名誉にかけて、きっと間違いはないよ」と、買い手は言った。
 これで売り買いは成り立ったのである。
 コスモが鏡を手にとると、老人は、「お宅までわたくしがお届け申しましょう」と、言った。
「いや、いや、私が持って行くよ」と、コスモは言った。
 彼は自分の住居を他人に見せることをひどく嫌っていた。ことにこんな奴、だんだんに嫌悪《けんお》の情の加わってくるこんな人間に、自分の住居を見られるのは忌《いや》であった。
「では、ご随意に……」と、おやじは言った。
 彼はコスモのために灯を見せて、店から送り出してしまうと、独りでつぶやいた。
「あの鏡を売るのも六度目だ。もう今度あたりでおしまいにしてもらいたいな。あの女ももうたいてい満足するだろうに……」

       二

 コスモは自分の獲物を注意して持ち帰った。その途中も、誰かそれを見付けはしないか、誰か後から尾《つ》けて来はしないかという懸念で、絶えず不安を感じていた。彼は幾たびか自分のまわりを見まわしたが、別に彼のうたがいをひくようなこともなかった。かりに彼の後を尾《つ》ける者があるとしても、いかに巧妙なる間者《スパイ》でもその正体を暴露するであろうと思われるほどに、町は非常に混雑して、町の灯は非常に明かるかった。
 コスモはつつがなく下宿に帰り着いて、買って来た鏡を壁にかけた。彼は体力の強い男であったが、それでも帰って来たときには、鏡の重さから逃がれて、初めて救われたように感じた。彼はまずパイプに火をつけて、寝台に体をなげ出して、すぐにまた、いつもの幻想にいだかれてしまった。
 次の日、かれは常よりも早く家へ帰って、長い部屋の片端にある炉《ろ》の上の壁にかの鏡をかけた。それから丁寧に鏡のおもての塵《ちり》を拭き去ると、鏡は日光にかがやく泉のように清くみえて、覆いをかけた下からも晃《ひか》っていた。しかも彼の興味は、やはり鏡のふちの彫刻にあった。それを出来るだけ綺麗にブラッシュをかけて、その彫刻のいろいろの部分について製作者の意図が那辺《なへん》にあったかを見いだすために、精密な研究を始めたが、それは不成功に終わった。後には退屈になって失望のうちにやめてしまった。そうして、鏡に映る部屋のなかをしばらくぼんやりと眺めていたが、やがて半ば叫ぶような声で言った。

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