「この鏡はふしぎな鏡だな。この鏡に映る影と、人間の想像とのあいだに何か不思議な関係がある。この部屋と、鏡に映っている部屋と、同じものでありながら、しかもだいぶ違っている。これは僕が現在住まっている部屋のありさまとは違って、僕の小説のなかで読んだ部屋のように見える。すべてありのままとは違っている。一切のものは事実のさかいを脱して芸術の境地に変わっている。普通ならば、ただ粗末な赤裸裸《せきらら》の物が、僕にはすべて興味あるものに見える。ちょうど舞台の上に一人の登場人物が出て来ただけで、もうこの退屈で堪えられない人生から逃がれて愉快になるようなものである。芸術というものは、疲れ切った日常の感覚から逃がれ、不安な日常の生活から離れて自然に帰り、また、われわれの住む世界から懸け離れた想像に訴えて、自然をある程度まであるがままに生かして、あたかも毎日なんの野心もなく、なんの恐れをも持たずに生活している子供の眼に、そのまわりをめぐる驚異の世界を示して、それに対してなんの疑いをも懐《いだ》かしめないようにするがごときものではあるまいか。今のあの鏡のうちにうつる骸骨をみると、怖ろしい姿に見える。その骸骨はこの忙がしい世界を隔てて、さらに遠い世界をながめる望楼のように、見えない物をも見るかのごとく寂然《せきぜん》として立っている。またその骨や、その関節は、僕自身の拳《こぶし》のように生けるがごとくに見える。……さらにまた、鏡のうちにうつる戦闘用の斧《おの》を見ろ。それはあたかも甲冑《かっちゅう》をつけた何者かがその斧を手に持って、力強い腕で相手の兜《かぶと》を打ち割り、頭蓋骨や脳を打ち砕き、他の迷える幽霊とともに未知の世界を侵略しているようにも見える。もし出来るものならば、僕はあの鏡のうちの部屋に住みたい」
 こんな囈語《うわこと》めいたことを言いながら、鏡のうちを見つめて起《た》ちあがるや、彼は異常の驚きに打たれた。鏡にうつっている部屋の扉《ドア》をあけて、音もなく、声もなく、全身に白い物をまとっている婦人の美しい姿があらわれたのである。婦人は憂わしげな、消ゆるがごとき足取りで、彼に背中をみせながら、しずかに部屋のはずれの寝台に行き、わびしげにそこへ腰をおろして、悩ましげな、悲しげな表情をその美しい眼に浮かべながら、無言の愛情をこめた顔をコスモの方へ振り向けた。
 コスモはしばらく身動きもせずに、避《よ》けるに避けられぬその眼を彼女の上にそそいだ。動けば動かれるとは思いながら、さて振り返って、鏡のなかならぬ本当の部屋にむかって、まともに彼女を見るほどの勇気も出なかった。しかも最後に、思わずふっ[#「ふっ」に傍点]と寝台の方を見かえると、そこには何の影もなかった。驚きと怖れとが一つになって、再び鏡にむかうと、鏡のうちには依然として美女の姿が見えるのである。彼女は今や眼をとじて、その睫毛《まつげ》のあいだからは熱い涙をながしつつ、その胸に深い溜め息をつくばかりで、死せるがごとくに静かであった。
 コスモは自分の心持ちを、自分で何とも言いあらわすことが出来ないくらいであった。彼はもう自覚を失って、ふたたび元へはかえらない人になってしまった。彼はもう鏡のそばに立っていられなくなった。それでも、貴女《きじょ》に対して失礼だとは心苦しく思いながら、また彼女が眼をあいて自分と眼を見合わせはしないかと恐れながら、なお、いつまでもじっと彼女を見つめていた。やがて彼は少しく気が楽になった。彼女はしずかに眼瞼《まぶた》をひらいたが、その眼にはもう涙が宿っていなかった。そうして、しばらくぼんやりしていたが、やがてまた、あたりの物を見ようとするかのように、部屋のうちを見まわしていたが、その眼はコスモの方へ向けられなかった。
 鏡にうつっている部屋のうちには、彼女の眼を惹《ひ》いた物はないらしかった。そうして、最後に彼を見るとしても、彼は鏡にむかっているのであるから、当然その背中しか見えないわけである。鏡のうちに現われている二人の姿――それは現在の部屋において彼がうしろ向きにならない限り、彼と彼女とが顔を見あわせることが出来ないのである。しかも彼がうしろを向けば、現在の部屋には彼女の姿は見いだせないのである。そうなると、鏡のうちの彼女からは、彼が空《くう》を見ているように眺められて、眼と眼がぴったりと出合わないために、かえって相互の心を強く接近させるかとも思われた。
 彼女はだんだんに骸骨の上に眼を落とした。そうして、それを見るとにわかにふるえて眼をとじたように思われた。彼女は再び眼をひらかなかったが、その顔にはいつまでも嫌悪《けんお》の色が残っていた。コスモはこの忌《いや》な物をすぐに取りのけようかと思ったが、それがために自分の存在を彼女に知らせたらば、あるいは彼女に不安を与えはしないかという懸念があったので、彼はそのままにして立ちながら彼女をながめていると、彼女の眼瞼は宝玉をおさめた貴い箱のように、その眼をつつんでいた。そのうちに、彼女の困惑の表情は次第に顔の上から消えていって、わずかに悲しみの表情を残しているばかりになった。その姿は動かないらしく、ただその呼吸するごとに規則正しいからだの動きを見るばかりになった。コスモは彼女の眠ったことを知った。
 彼は今や何の遠慮もなしに彼女を見つめることが出来た。かれは質素な白い長い着物を着ている彼女の寝すがたを見た。その白い着物がいかにもよくその顔に値いして、いい調和をなしていた。しなやかなその足、おなじように優しい手、それらは彼女がすべての美をあらわして、その寝すがたは彼女の完全な肢体のくつろぎを見せていた。
 コスモは飽きるほどそれを見つめていた。のちにはこの新しく発見した神殿のほとりに座を占めて、さながら病床に侍座《じざ》する人のように、機械的に書物を手にとった。書物をみても、心はそのページの上に集中しないのである。彼は今までの経験にまったく反対している目前の出来事にひどく驚かされているばかりで、その驚きは断定的、思索的、自覚的などということなしに、単なる受動的のものであった。しかし、そういうなかにもコスモの空想は彼一流の夢を送って、一種の陶酔に入っていた。
 彼は自分でも分からないほど長く腰をかけていたが、やがて驚いて起《た》ちあがって総身《そうみ》をふるわせながら再び鏡をながめると、鏡のうちに女はもういなかった。鏡はただこの部屋をあるがままにうつすのみで、ほかには何物もみえなかった。それは中央の宝石を取り去られた金の象嵌《ぞうがん》のごとく、または夜の空にかがやく星の消えたるがごとくであった。彼女はその姿と共に、鏡のうちにうつっていた一切のめずらかなる物を持ち去って、鏡の外にある物となんの異ることもなくなってしまった。それを見て彼はいったん失望したが、彼女はきっと再び帰って来るに相違ない、たぶん、あしたの夜も同じ時刻に帰って来るという希望をいだいて自ら慰めていた。そうして、もし彼女が重ねて来たならば、かの骸骨をみせて忌《いや》な心持ちを起こさせないようにするばかりでなく、すべて彼女に不愉快をあたえそうな物は、鏡にうつらない部屋の隅にことごとく移して、出来るだけこの部屋のうちを取り片づけた。

       三

 コスモはその夜は眠られなかった。
 彼は戸外の夜風に吹かれ、夜の空を仰いで心を慰めるために外出した。外から帰って、心はいくらか落ち着いたが、寝床に横になる気にはなれなかった。その寝台にはまだ彼女が横たわっているように思われて、自分がそこに寝ころぶのは、なんだか神聖を涜《けが》すように感じられてならなかった。しかし、だんだんに疲労をおぼえて、着物を着かえもせずにそのまま寝台に横たわって、次の日の昼ごろまで寝てしまったのであった。
 翌日の夕方、彼は息づまるほどに胸の動悸を感じながら、ひそかに希望をいだいて鏡の前に立ったのである。見るとまたもや鏡にうつる影は、たそがれの光りをあつめた紫色の霞《かすみ》を透して光っていた。すべてのものは彼と同じように、天来の喜びがあらわれてきて、この貧しい地上に光明を与えるのを待っているようであった。近くの寺院からゆうべの鐘がひびいてきて六時の時刻を示すと、ふたたび青白い美女は現われて来て、寝台の上に腰を掛けたのであった。
 コスモはそれを見ると、嬉しさのあまり夢中になった。彼女が再び出て来たのである。彼女はあたりを見まわして、骸骨がいないのを見ると、かすかに満足のおももちを見せた。その憂わしい顔色はまだ残っていたが、ゆうべほどではない。彼女は更にまわりのものに気をつけて、部屋のそこやここにある変わった器具などを物めずらしそうに見ていたが、それにもやがて倦《あ》いたらしく、睡気に誘われたように寝入ってしまった。
 今度こそは彼女の姿を見失うまいとコスモは決心して、その寝姿に眼を離さなかった。彼女の深い睡《ねむ》りを見つめていると、その睡りが心をとろかすように、彼女からコスモに移って来るように思われた。しかも彼女が起きあがって、眼をとじたままで無遊病者のような足どりで部屋から歩み去った時には、コスモも夢からさめたように驚いた。
 コスモはもう譬《たと》えようのない嬉しさであった。たいていの人間は秘密な宝をかくし持っているものである。吝嗇《りんしょく》の人間は金をかくしている。骨董家《こっとうか》は指環を、学生は珍書を、詩人は気に入った住居を、恋びとは秘密のひきだしを、みなそれぞれに持っている。コスモは愛すべき女のうつる鏡を持っているのである。
 コスモは骸骨がなくなったのち、彼女が周囲に置いてあるものに興味を持ち始めたのを知って、人生に対する新しい対象物を考えた。彼は鏡にうつっている無一物のこの一室を、どの婦人が見ても軽蔑しないように作り変えようと思った。そうするには部屋を装飾して、家具を備えればいいのである。たとい貧しいとはいえ、彼はこの考えを果たし得る手腕を持っていた。これまでは財産がないために身分相応の面目を保つことが出来ないのを愧《は》じて、その財産を作るために努めて細ぼそと暮らしてきていたのであるが、いっぽう彼は大学における剣術の達人であったので、剣術その他の練習の教授を申しいでて、自分の思惑を果たすほどの報酬を要求したのであった。その申しいでには学生たちも驚いた。しかし、また熱心にこれを迎える連中も多かったので、結局は熱心なプラーグの若い貴族たちの仲間ばかりでなく、金持の学生や、近在の人たちにもそれを教授することになった。それがために彼は間もなくたくさんの金を得たのである。
 彼はまず器具類や風変わりの置物を、部屋の押入れの中にしまい込んだ。それから彼の寝台その他の必要品を煖炉《だんろ》の両側に置いて、そこと他とを仕切るために、印度の織物で二つのスクリーンを張った。それから今まで自分の寝台のあった隅の方に、彼女のために優美な新しい寝台を備えた。そんなふうに贅沢な品物が日ごとにふえて、後には立派な婦人室が出来たのであった。
 毎夜、同じ時刻に女はこの部屋にはいって来た。彼女は初めてこの新しい寝台を見たとき、なかば微笑を浮かべて驚いたらしかった。それでもその顔色はまただんだんに悲しみの色になり、眼には涙を宿して、のちには寝台の上に身を投げ出して絹《シルク》のクッションに身を隠すように俯伏《うつぶ》した。
 彼女は部屋の中のものが増したり、変わったりするたびにそれに気がついて、それを喜んでいた。それでもやはり絶えず何か思い悩んでいるのであったが、ある夜ついに次のようなことが起こった。いつものように彼女が寝台に腰をおろすと、コスモがいま壁に飾ったばかりの絵画に彼女は目をつけたのである。コスモにとって嬉しかったのは、彼女は起《た》ちあがって絵画の方に進みよって、注意ぶかくそれを眺め、いかにも嬉しそうな顔色を表わしたことであった。しかもそれがまた悲しい、涙ぐんだような表情に変わって、寝台の枕に俯伏してしまったかと思うと、またその顔色もだんだんに鎮まって、思い悩んで
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