である。焚いてそのお膝の前に格之進が捧げ持っていったのをズバリと言った。
「聴《き》くのでない。予が頭《つむり》に焚きこめい」
 はっとなって老職は、打ちひしがれたように面を伏せた。死を覚悟されているのである。斎戒沐浴して髪に香を焚きこめる、――刺客の手にかかることがあろうとも、見苦しい首級《しゅきゅう》を曝《さら》したくないとの床《ゆか》しい御覚悟からなのだ。
 格之進の老眼からは、滝のようにハラハラと雫が散った。
 香炉を捧げ持つ手がわなわなとふるえた。
 声もカスレ乍らふるえた。
「お潔《いさ》ぎよいことで厶ります。只もう、只もうお潔ぎよいと申すよりほかは厶りませぬ」
「長い主従であったよな」
「…………」
「不吉じゃ。涙を見するは見苦しかろうぞ。大老も、井伊殿の御最期もそうであった。登城を要して討つは、刺客共にとって一番目的を遂げ易い機《おり》である。十五日であるかどうかを諄うきいたのもそのためじゃ。決断を急いだのもそれゆえじゃ。予を狙う刺客共もあすの来るのを、いや、今日の来るのを待ちうけておるであろう。多井!」
「はっ……」
「すがすがしい朝よな」
 ――カラリと晴れて陽があがった。
 登城は坂下門からである。対馬守は颯爽《さっそう》として言った。
「供揃いさせい」
「整えおきまして厶ります」
「人数増やしたのではあるまいな」
「いえ、万が一、いや、いずれに致せ多いがよろしかろうと存じまして、屈強の者|選《よ》りすぐり、二十名程増やしまして厶ります」
「要《い》らぬ。減らせ!」
 言下に斥《しりぞ》けると、さらに颯爽として言った。
「首の座に直るには供は要らぬ。七八名で沢山ぞ。館に山村、それから道弥、――道弥はおらなんだな。あれがおらばひとりでも沢山であろうのに、いずれにしても半分にせい」
 命ぜられた供人達が平伏しているお駕籠へ対馬守は紊れた足音もなく進んでいった。しかしその刹那である。
 一閃! キラリ、朝陽に短く光りの尾が曳いたかと見るまに、どこからか飛んで来て、プツリ、お駕籠の棒先に突きささったのは手裏剣だった。
 ぎょっとなって色めき立ったのを、静かに制して対馬守は見守った。火急に何か知らせねばならぬことでもあるのかまさしく手裏剣文なのである。
「見せい」
 押し開いた目に読まれたのは次の一文だった。
「新らしき敵現われ候間《そうろうあいだ》、御油断召さる間敷候《まじくそうろう》。堀|織部正《おりべのかみ》殿恩顧の者共に候。
 殿に筋違いの御恨み抱き、寄り寄り密謀中のところを突き止め候間、取急ぎおしらせ仕候《つかまつりそうろう》」
 ふいっと対馬守の面には微笑が湧いた。
「誰ぞ蔭乍ら予の身辺を護っている者があると見ゆるな」
 だが一瞬にその微笑が消えて、怒りの声が地に散った。
「愚か者達めがっ。私怨じゃ。いいや、安藤対馬、堀織部正恩顧の者共なぞに恨みをうける覚えはないわっ。人が嗤《わら》おうぞ。――行けっ」
 痛罵《つうば》と共に、姿は駕籠に消えた。――堀織部正は先の外国奉行である。二月前の去年十一月八日、疑問の憤死を遂げたために、流布憶説《るふおくせつ》まちまちだった。対馬守の進取的な開港主義が度を越えているとなして憤死したと言う説、外国奉行であり乍ら実際は攘夷論者であったがゆえに、任を負いかねて屠腹《とふく》したと言う説、それらのいろいろの憶説の中にあって、最も広く流布されたものは、品川御殿山八万坪を無用の地との見地から、対馬守がこれを外国公使館の敷地に当てようとしたところ、織部正が江戸要害説を固執《こしつ》して肯《がえん》じなかったために、怒って幽閉したのを憤おって自刃したと言う憶測だった。もしも堀家恩顧の家臣が恨みを抱いているとするなら、その幽閉に対する逆恨みに違いないのである。
「馬鹿なっ。大義も通らぬ奸徒達にむざむざこの首《こうべ》渡してなるものかっ。やらねばならぬ者がまだ沢山あろうぞ。早う行けっ」
 お駕籠は揺れらしい揺れも見せないで、しずしずと坂下門にさしかかっていった。供揃いはたった十人。一面の洗《あら》い砂礫《じゃり》を敷きつめたその坂下御門前に行きついたのは、冬の陽の冷たい朝まだきの五ツ前である。
 と見えた刹那――、轟然《ごうぜん》として銃音《つつおと》が耳をつんざいた。一緒に羽ばたきのような足音が殺到したかと思われるや、突然叫んで言った。
「国賊安藤対馬、斬奸《ざんかん》じゃっ。覚悟せい!」
 チャリンと言う刃音が同時に伝わった。
 刺客だ!
 七八名らしい剣気である。
「来おったな」
 対馬守は、待ちうけていた者に会うような、ゆとりのある態度で、従容《しょうよう》と駕籠を降りた。――途端、目についたのは脱兎のごとくに迫って来る若侍の姿だった。それも十八九。
 三島――対馬守は咄嗟
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