と言えば厳しすぎるお仕打ちだった。――道弥は、悲しげに面をあげて、じっとお登代の目を見守った。目から、そうして乳房を通って、道弥のふたつの眼《まなこ》は怪しくおののき輝き乍ら、乳房の下のほのかなふくらみにそそがれた。
 四月《よつき》! ――そこには四月の愛の結晶がすでにもう宿されているのである。
 これまでになっていることをお気づきだったら、ああまで強くお叱りにならなかったかも知れぬ。よしや一度はお叱りになったにしても、昔ほどの御豊な情味をお持ちになっていたら――だが、そのとき道弥の心に浮び上って来たものは、日夜の御心労におやつれ遊ばしている殿のいたいたしいお姿だった。
 あのお顔に刻まれている皺《しわ》の一つ一つの暗い影は、とりもなおさず国難の暗い影なのである。
 殿の一動は、江戸の運命を左右するのだ。
 そうしてまた殿の一挙は、国の運命をも左右するのだ。
 おいたわしいことである。心に一刻半刻のゆるみをも持つことの出来ない殿の日夜は、只々おいたわしい限りである。――いや、それゆえにこそ、自分等ごとき取るに足らぬものの恋なぞは、心にも止めていられないのだ。
 カチカチと、オランダ渡りの置土圭《おきどけい》が、静かな時の刻みをつづけていった。――勿論《もちろん》殿から拝領の品だった。追放の身にはなっても、せめてこればかりは御形見にと思って持って来たのである。
 恨んではならぬ!
 お護り申さねばならぬ!
「登代どの!」
 ほっと蘇《よみがえ》ったように面をあげると、道弥は不意にきいた。
「あすは十五日で厶ったな」
「あい。月次《つきなみ》お登城の日で厶ります」
 きくや矢庭《やにわ》に立ち上ると、敢然として言った。
「行って参る! 並々ならぬ身体じゃ。大切に致されよ」
「ま! 不意にどこへお越し遊ばすので厶ります。このような夜中、何しに参るので厶ります」
「せめてもお詫びのしるしに――、いや、道弥がせねばならぬことを致しに参るのじゃ。健固でお暮し召されよ……」
「ま! お待ちなされませ! お待ちなされませ!」
 しかし道弥の姿は、もう表の闇に消えていった。――同時のように、ジイジイと置土圭が四時《ななつ》を告げた。

 大書院の置土圭もまたその時四時だった。
 だが対馬守は、あれから今まで死像のようにじっと端座したままだった。――老職多井がそれを気遣って言った。
「夜明けのせいか、めっきり冷えが増して参ったように厶ります。お微行《しのび》のあとのお疲れも厶りましょうゆえ、御寝《ぎょしん》遊ばしましてはいかがで厶ります」
「…………」
「な! 殿!」
「…………」
「殿!」
「…………」
「きこえませぬか。殿! もう夜あけに間も厶りませぬ。暫しの間なりとお横におなり遊ばしましてはいかがで厶ります」
「…………」
「な! 殿!」
「…………」
「殿!」
 そのとき、死像のように声のなかった対馬守が、ふいっと面をあげると突然言った。
「あすは十五日であったな」
「はっ。月次総登城の御当日で厶ります。それゆえ暫しの間なりとも御寝遊ばしましてはと、先程から申し上げているので厶ります。いかがで厶ります」
「それよりも予の目のうちには、あれがちらついておる。……屋台店の寂《さび》れがちらついておる……。たしかに十五日じゃな」
「相違厶りませぬ」
「しかと間違いあるまいな」
「お諄《くど》う厶ります」
「諄うのうてどうしょうぞ。月次総登城とあらば、諸侯に対馬の動かぬ決心告げるに丁度《ちょうど》よい都合じゃ――硯《すずり》を持てい」
「はっ?」
「紙料《しりょう》持参せいと申しているのじゃ」
 いぶかり乍ら格之進が取り揃えた奉書を手にすると、対馬守はきりっと唇を決断そのもののように引き締めて、さらさらと書きしたためた。
「ポルトガル国トノ交易通商ハ、最早ヤ断乎トシテ之ヲ貫ク以外ニ途ハナシ。早々ニ条約締結ノ運ビ致スヨウ、諸事抜リナク御手配《おんてはい》可然候《しかるべくそうろう》。人ノ命ニ明日ハナシ。ソノ心シテ諸準備御急ギ召サルベク安藤対馬シカト命ジ置キ候」
 筆をおくと凛として言った。
「予が遺言に――、いや、夜がいか程|更《ふ》けておろうと火急の用じゃ。すぐさま外国奉行の役宅へ持参させい」
「ではもうやはり――」
「聞くがまではない。ちらつく……、ちらつく、予の目には只あれがちらつくばかりじゃ……」
 声をおとして、他を顧《かえり》みるように言うと、対馬守は静かにきいた。
「湯浴の支度は整《ととの》うておるであろうな」
「おりまするで厶ります」
 ――入念な入浴だった。
 そうして夜が白々と明けかかった。紊《みだ》れも見えぬ足取りでお湯殿から帰って来ると、対馬守は愈々《いよいよ》静かに言った。
「香を焚《た》け」
 いかにも落ちついた声なの
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