である。刹那《せつな》に、バタバタとその影が走り出すと走り乍らけたたましく呼び子を吹き鳴らした。
 同時に、街のかなたこなたから、羽音のような足音が近づいた。
「小屋へ飛びこめっ。あの左手の黒い建物が、非人小屋じゃ! あれへかくれろっ」
 キリを揉《も》むような足の苦痛をこらえて、神代は、ふたりをせき立て乍ら、まっしぐらに非人小屋の中へ駈けこんだ。
 しかし、どうしたことかその小屋は、がらあきだった。いつもは二百人近い非人がたかっているというのに、人影はおろか、灯影《ほかげ》一つみえないのである。
 そのまにも、捜索隊の足音は、ちらちらと提灯の光りを闇のかなたにちりばめて、呼び子の音を求め乍ら、バタバタと駈け近づいた。
「生憎《あいにく》だな! 薩摩屋敷まではとうてい逃げられまい。どこかにかくれるうちはないか!」
 焦《あせ》って、見探していた三人の目は、はからずも道向うの一軒の木戸へ止まった。ここへ這入れ、と言わぬばかりにその木戸がぽっかりと口をあけていたのである。
 なにをする家《うち》か、誰の住いか、見さだめるひまもなかった。脱兎《だっと》のように三人は、小屋から飛び出して、その木戸の中へ駈けこんだ。
 奥まった小座敷らしいところから、ちかりと灯が洩《も》れた。――三人は夢中だった。灯を追う虫のようにその灯を追って、まっしぐらに飛びこんだ。
 しかし、同時に、先ず小次郎がたちすくんだ。金丸も立ちすくんだ。あとから駈けこんだ直人も、はっとなって立ちすくんだ。
 まさしく誰かの妾宅とみえて、その灯の下には、今、お湯からあがったらしい仇《あだ》っぽい女が、うすい長襦袢《ながじゅばん》をいち枚引っかけたままで、すらりと片膝を立て乍ら、せっせとお化粧をしていたのである。
 ふり向くと一緒に、険《けん》のある女の目が、ぐっと三人をにらみつけた。――咄嗟に、小次郎が、バッタのように手をすり合わせて言った。
「追われているんです! かくまっておくんなさい」
 いいもわるいもなかった。構わずに座敷の中へおどりあがって、あちらこちら探していたが、お勝手につづいた暗い土間に、うち井戸の縄つるべがさがっていたのをみつけると争うように金丸と飛んでいって、左右の縄へつかまり乍らするすると井戸の中へ身を忍ばせた。
 あとからあがって、直人も、まごまごし乍ら探していたがほかにもう身をひそませる場所もなかった。
 只一つ目についたのは、隣りの部屋の屏風《びょうぶ》の向うの寝床だった。
「この辺で消えたぞ」
「この家が臭い!」
「這入れっ、這入れっ」
 表の声は、今にも乱入して来そうな気配なのだ。
 直人は、せき立てられたように、隣りの部屋へ駈けこんだ。――しかし、同時に、われ知らず足がすくんだ。
 寝床は寝床だったが、ふっくらとしたその夜具の中には、旦那のおいで、お待ちかね、と言わぬばかりに、仲よく二つの枕がのぞいていたのである。
 ためらい乍ら、まごまごしているのを、突然、女がクスリと笑ったかと思うと、押しこむようにして言った。
「しょうのない人たちだ。二度とこんな厄介かけちゃいけませんよ。――早くお寝なさいまし」
 意外なほどにもなまめいた声で言って、咄嗟に気がついたものか、座敷に点々とおちている血の雫《しずく》の上へ、パッパッと一杯に粉白粉《こなおしろい》をふりかけておくと、ぺったり長襦袢のまま直人の枕元へ座って、さもさもじれったそうに、白い二の腕を髪へやった。
 間髪《かんぱつ》の違いだった。
 ドヤドヤと捜索隊の一群がなだれこんで来ると、口々に罵《ののし》った。
「来たろう!」
「三人じゃ!」
「かくしたか!」
「家探しするぞ!」
 声の下から、ちらりとけわしい目が光ったかと思うと、隊長らしいひとりがずかずかとおどりあがって、寝床の中の黒い月代《さかやき》をにらめ乍ら女にあびせた。
「こいつは誰じゃ!」
「…………」
「返事をせい! 黙っていたら引っ剥《ぱ》ぐぞ」
 手をかけて剥がそうとしたのを、女がおちついていたのである。黙って、その手を軽くはねのけると、うっすらと目で笑って、この姿一つでもお分りでしょう、と言うように、なまめかしく立膝を直人の顔のところへすりよせ乍ら言った。
「はしたない。旦那は疲れてぐっすり寝こんだところなんですよ。もっとあてられたいんですかえ」
「馬鹿っ」
 叩《たた》きつけるように、男が怒鳴った。
 馬鹿というより言いようがなかったに違いないのである。
「馬、馬鹿なやつめがっ、いいかげんにせい!」
 まき散らした白粉も、女とは不釣合な五分月代も、疑えばいくらでも不審があるのにいざと言えば寝床へも一緒に這入りかねまじい女のひとことに気を呑まれたとみえて、捜索隊の者たちは、ガヤガヤとなにかわめき乍ら、また表へ飛んでいった。
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