同時に女の態度がガラリと変った。
「追っつけ旦那が来るんです。来たら今の奴等よりもっと面倒になるから、早く逃げて下さいまし」
「先生々々。もう大丈夫ですよ。足音も遠のきましたよ! このすきだ。早くお逃げなさいまし!」
井戸から這い出して、小次郎たちふたりもせき立てた。
しかし、直人は不思議なことにも動かなかった。
「気味のわるい。どうしたんですえ。まさか死んだんじゃあるまいね」
怪しんで、のぞこうとした女が、
「まあ、いやらしい! なにをしているんです!」
目を吊りあげて、パッと飛びのいた。
鼻を刺す移り香を楽しみでもするように直人は、しっかりと女の枕に顔をよせて、にやにやと笑っていたのである。
「けがらわしい! 危ない思いをしてかくまってあげたのになんていやな真似《まね》をしているんです! そんなものほしければくれてやりますよ! 今に旦那が来るんです! とっとと出ておいきなさいまし!」
「すまんすまん! アハハ……。つい匂うたもんだからのう。ほかのところを盗まんで、しあわせじゃ。旦那によろしく……」
けろりとし乍ら這い出ると、直人は、にやにや笑い乍ら出ていった。
四
うまく危険をのがれたのである。
薩摩屋敷の塀に沿って、まっすぐ上岡崎《かみおかざき》へぬけると、この刺客たちが黒谷の巣と称していた光安院は、ほんのもう目と鼻だった。万一のことがあっても、あの寺の住職ならばと大楽源太郎の添書を貰って、根じろにしていた寺だった。
何のために上洛《じょうらく》したのか、うすうすその住職は気がついているらしかったが、なにを言うにも今斬って、今逃げて来たばかりなのである。血のついたこの姿をまのあたりみられてはと、三人は盗むように境内《けいだい》を奥へ廻って、ねぐらに借りていた位牌堂の隣りの裏部屋へ、こっそり吸われていった。
「骨を折らしやがった。ここまで来ればもうこっちの城だ。丸公《たまこう》。まだいくらか残っているだろう。徳利をこっちへ貸してくれ」
たぐりよせるように抱えこむと、立てつづけに小次郎は、ぐびぐびあおった。
「どうです。先生は?」
「…………」
「おやりになりませんか、まだたっぷり二合位はありますよ」
しかし直人は、見向きもせずに、ぐったりと壁によりかかって、物憂《ものう》げに両膝をだきかかえ乍ら、じっと目をとじたままだった。その顔は、なにかを思いこんでいるというよりも、あらゆることに疲れ切っているという顔だった。
「どうしたんです。一体。――足の傷が痛むんですか」
「…………」
「傷が、その傷がお痛みになるんですか」
「決ってらあ」
「弱りましたね。手当をしたくも膏薬《こうやく》はなし、住職を起せば怪しまれるし、――酒があるんです。これで傷口を洗いましょうか」
「…………」
「よろしければ洗いますよ。もし膿《のう》を持つと厄介だからね。丸公《たまこう》、手伝え」
おもちゃをでも、いじくり廻すように足を引き出して、こびりついている血と泥を、ごしごしとむしりとった。
ぐいと、穴がのぞいた。
その穴へ、ふたりは、代る代る酒をぶっかけた。――身を切るほども、しみ痛い筈なのに、しかし直人は、痛そうな顔もせずに、ぼんやりと壁へ身をもたせたままだった。
なにかに、心をとられているらしいのである。――小次郎が、ひしゃげた鼻に、にやりと皺《しわ》をよせて言った。
「あれだね。――この忙しい最中に、先生も飛んだものを嗅いだもんさ。今の女のあの匂いを思い出したんでしょう」
「…………」
「旦那よりほかに寝かしもしないふとんの中へ入れたんだ。紙ひと重《え》の違いだが、因縁《いんねん》のつけようじゃ浮気をしたも同然なんだからね。そこを一本、おどしたら、あの女、物になるかも知れんです。酒のしみるのが分らないほど、思いに凝《こ》っていらっしゃるなら、ことのついでだ。今からひと押し、押しこんでいったらどうでごわすかよ」
「バカッ」
「違いましたか!」
「…………」
「どうもそのお顔では、ちっときな臭いんですがね。あのときの女の立膝が、ちらついているんじゃごわせんか」
耳にも入れずに、直人は、目をつむっていたが、卒然として身を起すと、にったりとし乍ら、あざけるように言った。
「どうやらおれも、少々タガがゆるんだかな」
「なんのタガです」
「料簡《りょうけん》のタガさ。――大村益次郎、きっと死ななかったぞ」
ギクリとなったように、小次郎たちも目を光らした。実はふたりも、それを気づかっていたのである。
「八人狙って八人ともに只の一刀で仕止めたおれじゃ。――のう、そうだろう」
直人の顔が、描《か》き直したように青ざめた。
「しかし、九人目の大村にはふた太刀かかったんだ。そのふた太刀も、急所をはずれて膝
前へ
次へ
全9ページ中5ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
佐々木 味津三 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング