「はっ……。参りまする……。只今それへ参りまするで厶ります……」
どうしたことか、這入《はい》って来た時の影のように力なく打ち沈んだ声で答え乍ら、おどおどとして主侯の近くへ進んでいったのは、同じお気に入りの近侍波野千之介である。しかし座を占めると同時だった。不思議なことにその千之介が君前《くんぜん》の憚《はばか》りもなく、突然、声をこらえ乍ら幽《かす》かに忍び泣いた。
「なに! 泣いているな! どうしたぞ。解《げ》せぬ奴じゃ。何が悲しいぞ!」
「…………」
「のう! 言うてみい! 何を泣いておるのじゃ!」
「いえあの、な、泣いたのでは厶《ござ》りませぬ。不調法御免下さりませ。風気《ふうき》の気味が厶りますので、つい鼻が、鼻がつまったので厶ります……」
「嘘をつけい!」
見えすいたそんな言いわけを信ずる長国ではないのである。――ぐいと脇息の前に乗り出して来た顔から、追及の声がうなだれている千之介のところへ迫っていった。
「言うてみい! 言うてみい! のう! 遠慮は要らぬぞ。悲しいことがあらば残らずに言うてみい!」
「…………」
「気味のわるい奴よ喃《のう》。なぜ言わぬぞ。そう言えば来
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