慌てて、閉め切ってあった向う端の部屋の襖をガラリとあけた。
同時に、
「おお」
「よう」
向うとこちらから、おどろいた声と顔とが打《ぶ》つかった。
意外にもその襖の向うには、ゆうべのあの新兵衛が、ゆうべのあの小娘のお雪を抱きかかえるようにして坐っていたのである。
しかし、その髪にはもう花簪はみえなかった。覚えたばかりのような媚《こび》のある目を向けて、恥かしそうに平七の顔を見あげると、また恥かしそうにお雪は顔を伏せた。
早くも有朋の目が、その姿にとまった。
お女将《かみ》の推察もまた早かった。
「困るね。おまえ。こんなお客さん毎日のことだから、あとでもいいんだよ。御前さま、おまえにお目が止まったようだから、早くあちらへご挨拶にお行きよ! 粗相《そそう》があっちゃいけないよ」
もぎとるようにしてお雪をつれて行くと、無理矢理《むりやり》有朋のそばへ坐らせて、お女将は、ここを先途《せんど》と愛嬌《あいきょう》をふりまいた。
「なにしろこの通りの赤児《ねんねえ》でございますから、いいえ、ご前《ぜん》、赤児《ねんねえ》ではございますけれど、大丈夫ですよ。三つの年からわたくしが娘のようにして育てた小婢《こども》でございますから、よろしいように。――もしえ、みんなもなにをしておるんだえ。あちらの御浪人さんのお酒なんぞあとでいいよ。早くこちらへお運び申しておくれ」
ピシャリと、新兵衛の座敷の襖が鳴った。
白い歯を剥いて、有朋がにっと笑うと、荒々しく閉ったその襖を目でしゃくり乍ら、平七に言った。
「おまえ、あれと朋輩《ほうばい》じゃろう。用はない。あれの方へ行け」
「……?」
「ここにはもういなくてもよいから、あちらへ退《さが》れというのじゃ。早く退れっ」
「そうでございますか。あちらへ行くんですか……。やあ君。ゆうべは失敬。さがれと言ったからやって来たよ」
のっそりとした顔をして、平七は、追われるままに這入《はい》っていった。
「馬鹿めがっ」
待ちうけるようにして、新兵衛が睨《にら》みつけた。
「なんだとて、あんなものを案内して来たんじゃ!」
「おれが案内して来たわけじゃない。ふらふらとこっちへやって来たら、和服の陸軍中将も興《きょう》に乗って、ふらふらとついて来たから、一緒にここへ這入ったまでさ」
「なにが陸軍中将じゃ。貴様、そういうような諛《へつら》った真似をするから、みんなからも爪《つま》はじきされるんじゃ。女将も女将じゃ。江戸の名残りだの、めずらし屋だのと、利《き》いた風《ふう》な看板をあげておいて、あのざまはなんじゃ! こういう風なことをするから、成り上り者が、ますますのさばるんじゃ」
「そういうことになろうかも知れんの」
「知れんと思ったら、貴様はじめ、こんな真似をせねばよいのじゃ! するから、尾っぽをふるから、心のよごれぬ女までが、お雪のまうなものまでが――」
たまりかねたとみえて、新兵衛は、膝の横に寝かしてあった大刀を、じりじりと引きよせた。
しかし、なん度もなん度も膝を浮かして、襖に手をかけようとしたが、その紙ひと重《え》の襖が、今はもう遠く及びがたい城壁のように、ぴったりと間を仕切って、たやすく開けることが出来なかった。
「馬鹿めがっ。意気地《いくじ》なしめがっ。こういうことになるから、こういう目に会うから、今の世の中は気に入らんのじゃ! ――女将! 女将!」
悶《もだ》えるように、どったりと坐ると、新兵衛は甲高《かんだか》く呼んだ。
「酒を運べっ。女将! おれとてお客様じゃ! 貴様が運べぬなら、おやじを呼べっ、おやじを!」
するすると襖があいて、その女将が、青ずんだ顔をのぞかせた。
しかし、のぞくにはのぞいたが、新兵衛には目もくれなかった。
「平七さんとやら、ご前《ぜん》がうるさいから、さきへかえれと仰有《おっしゃ》っておりますよ」
「あ、左様か。今度はさきへかえれか。そういうことになれば、そういうことにするより致仕方《いたしかた》ござるまい。では、かえるかな……」
のっそりとした顔をして平七は、追わるるままに、また、のっそりと立ちあがった。
「まてっ。むかむかするばかりじゃ。おれも行く! ――まてっ」
いたたまらないように立ちあがると、荒々しい足音を残し乍ら、新兵衛もあとを追っていった。
しかし、そとへ出ると一緒に、その足は、行きつ戻りつして、門《かど》から離れなかった。
いくたびか、二階を睨《にら》めあげて、苛々《いらいら》と目を据《す》え乍《なが》ら、思いかえし、思い直しては、また、歯を喰いしばっていたが、矢庭《やにわ》に腰の小刀《しょうとう》を抜いて、平七の手に押しつけると、呻《うめ》くような声で新兵衛が言った。
「頼む! こいつを持っていってくれっ」
「おれに斬れというのか」
「いいや、新兵衛も行く! おれも行く! 一緒にいって斬ってくれっ」
「ひとりでは山県狂介が斬れんのか」
「斬れんわけではないが、狂介ごとき、き、斬れんわけではないが……」
「斬れんわけでなければ、おぬしひとりでいって、斬ったらよかろう。それとも狂介はひとりで斬れるが、山県有朋の身のまわりにくっついている煙りが斬り難いというなら、やめることさ」
「では、貴公は、おまえは、むかしの仲間を見殺しにするつもりか!」
「つもりはないが、おぬしは腹が立っても、おれは腹が立たんとなれば、そういうことにもなるじゃろうの。――行くもよし、やめるもよし。おれはまずあしたまで、生きのびてみるつもりじゃ」
「……!」
ぽつりと声が切れたかと思うと、しばらくうしろで新兵衛の荒い息遣いがきこえていたが、やがてばたばたと駈け出した足音があがった。
四
間違いもなく平七は、そのあくる日まで無事に生きのびた。
また奥からか、庭先からか、同じように呼ぶだろうと思っていたのに、しかし有朋は、それっきり何の声もかけなかった。
いち日だけではなかった。ふつ日《か》たち、三日《みっか》となっても、有朋は顔さえみせなかった。
気保養《きほよう》と称して、この三《み》めぐりの女気《おんなけ》のない、るす番のじいやばかりの、この別荘へやって来て、有朋がこんな風にいく日《か》もいく日《か》も、声さえ立てずに暮らすことは、これまでも珍らしいことではなかった。
そういうときには、部屋も五《い》ツ間《ま》しかないこの別荘のどの部屋に閉じこもっているのか、それすらも分らないほどに、どこかの部屋へ閉じこもったきりで、橋を渡って向う河岸《がし》の亀長《かめちょう》から運んで来る三度三度のお膳さえ、食べているのか呑んでいるのか分らないほどだった。
しかし、なにかしていることだけはたしかだった。その証拠には、有朋が陸軍中将の服を着て、馬に乗ってこの別荘へやって来て、こうやって三日か五日《いつか》声も立てずに閉じこもって、また長靴を光らしてこの別荘から出て行くと、忘れたころにぽつりぽつりと、どこかの鎮台《ちんだい》の将校の首が飛んで、そのあとへぽつりぽつりとまた一|足飛《そくと》びの新らしい将校の首が生《は》えたり、伸びたりするのがつねだった。
そういう穴ごもりのあるたびに、いく人かいる食客《しょっかく》のうちから、決ってこの金城寺《きんじょうじ》平七がお供を言いつかって来るというのも、実はこの金城寺平七という見事な名前を持っている男が、名はあっても心を持っているかいないのか分らないようなところがあるためだった。
実際また平七は、有朋がこの別荘に、何日閉じこもっていようとも、どんな風に世間の目をくらまして、長州陸軍の根を育てる苦心をしていようとも、一向《いっこう》用のないことだった。
そのためにまた明日どこかへ押し流されていったら、流れ止まったところで、ふやけるのもよし、ねじ切って棄てるなら、棄てられるのもよし……。
「陸軍の大将さん。
海軍の大将さん。
さつまはお艦《ふね》。
ちょうしゅうは大砲。
ちくと刺《さ》すのは土佐の蜂《はち》……」
「だれじゃ! そんな唄を唄うのは! 平七か!」
「わたしが、――ですか。なにも唄ったような覚えがないですが……」
「いや、よし、分った。近所の小童《こわっぱ》たちじゃ。だれが教えたか、つまらぬ唄を唄って、悪たれどもがわいわい向うへ逃げて行くわ。仕方のない奴等じゃ。――さあ馬じゃ」
「あ、なるほど、軍服も靴もお着けでござりまするな。ではゆるりゆるりとまいりましょうか」
三日の間、そこに来ては寝ころんでいた秣《まぐさ》の中から、むくむくと起きあがると、平七は、曳《ひ》き出した鹿毛《かげ》にひらりと乗った有朋のさきへ立って、なんのこともない顔を馬と並べ乍ら、パカパカと三めぐりの土手へあがっていった。
不思議なことに平七は、まっすぐ土手を石原町の方へ下っていった。
「違うぞ。平七。吾妻橋を渡るんじゃ」
「そうでございますか……。こちらへいっては、お屋敷へまいられませんか」
「行って行かれないことはないが、半蔵門へかえるのに、本所なぞへいっては大廻りじゃ。吾妻橋へ引っ返せ」
「でも、馬がまいりますもんですから……」
「…………」
だまって、首をかしげていた有朋が、突然、洞穴《ほらあな》のような声を出して、馬の上から笑った。
「なるほど、そうか。ハハハ……。さては、おまえ……」
「なにかおかしいことがあるんでございますか」
「あれに、お雪に参っておるな」
「わたしが! そうでございましょうかしら……。そんな筈はないんだが、いち度もそんなことを思ったことはないつもりですが……」
しかし、こないだの夕ぐれもそうだった。きょうはなおさらそうだった。なにか耳の底できこえているようなこころもちがして、その音《ね》を慕《した》い乍ら、その音を慕い求めて、この道をやって来たのに間違いはないが――。
その音がなんであるか。
くらい耳の底へ、慕いさがしているその音が、リンリンリンと花簪《はなかんざし》の音になって湧きあがった。
思わず平七は顔を赤らめた。
「そうれみろ、知らず知らずに思い焦《こ》がれていたろうがな。ハハハ……可哀そうにな」
「いいえ! いいえ! 可哀そうなのは平七さまではござりませぬ! わたくしでござります! お待ち下されませ! ご前《ぜん》さま!」
不意に、はちきれたような叫びがきこえたかと思うと、道のわきからか、門の中からか、分らぬほども早く白い塊《かたま》りが飛び出して来て、ガブリと噛《か》みつくように有朋の足へしがみついた。
お雪なのだ。
「お前か! たわけっ。なにをするのじゃ!」
「いいえ! いいえ! 放しませぬ! 人でなし! 人でなし! 嘘つきのご前さまの人でなし! わたしをだまして、こんな悲しい目に会わして、だれがなんと仰有《おっしゃ》ろうとも、この靴は放しませぬ! きょうは、きょうは、と毎日毎日泣き暮して待っていたんです! みなさまも集っておいでなら、よくきいて下さいまし! そればっかりはご免下さい、こらえて下さいと、泣いてわたしがお頼みしたのに、わたしをだまして、威《おど》して、あすは来る、あすは使いをよこして、気まま身ままの寵《おも》いものにしてやるなぞと、小娘のわたしをだましておいて、それを、それを」
「たわけっ。なにを言うのじゃ! 人が集《たか》って来るわっ。放せ! 放せ!」
「いいえ! 死んだとてこの靴は放しませぬ! どうせ嘘とは思いましたけれど、とうとう悲しい目に会いましたゆえ、もしや、もしや、ときょうまで待っておりましたのに、それを、それを、嘘つき! 人でなし! いいえ! いいえ! そればかりではありませぬ。あの人を、新兵衛さままでをも、なんの罪もないのに、あんなむごい目に会わして、お役人に、お牢屋に引っ立てなくともいいではありませぬか! お可哀そうに、あんな負けた人までも、世の中に負けた人まで引っくくって、放しませぬ! ご前さまが、このお雪に詫《わ》びるまでは放しませぬ!」
「馬鹿めがっ。わしが新兵衛のことなぞ知るものか! あ
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