交《めま》ぜをし乍ら、さっさと中へ這入《はい》っていった。
狭《せま》い前庭《まえにわ》に敷いた石に、しっとりと打ち水がしてあって、濡《ぬ》れた石のいろが、かえってわびしかった。
「まあ、ようこそ……」
たびたび来ているとみえて、顔なじみらしい女中がふたり、あたふたと顔を並べ乍ら下へもおかずに新兵衛を請《しょう》じあげた。
しかし、新兵衛は、ほかに誰か目あてがあるらしく、あちらこちらと部屋をのぞきのぞき、川に向いた三間《みま》つづきの二階へ、どんどんとあがっていった。
その部屋のてすりにもたれて、ひらひらと髪の花簪《はなかんざし》を風に鳴らし乍ら、ぼんやりと川をみていた小柄《こがら》な女が、おどろいたようにふりかえった。
「あら……」
「おお、いたのう」
探していたのはそれだったのである。まだ十七八らしく、すべすべした肌のいろが、川魚のような光沢《つや》を放って、胸から腰のあたりのふくらみも、髪の花簪のように初々《ういうい》しい小娘だった。
「いかんぞ。そんなところで浮気をしておっては。――まあここへ坐れ」
たびたびどころか、毎日来ているとみえて、新兵衛は、無遠慮に女の手をとり乍ら、そばへ引よせた。
「きんのう来たとき、襟足《えりあし》を剃《そ》れと言うたのに、まだ剃らんの」
「でも、忙しいんですもの……」
「忙しい忙しいと言うたところで、こんな家へ八|字髭《じひげ》の旦那方は来まいがな。みんなおれたちみたいな風来坊ばかりじゃろうがな」
「ええ、それはそうですけれど……」
「毎日|文《ふみ》を書いたり、たまにはいろ男にも会《お》うたりせねばならんゆえ、それが忙しいか」
「まあ、憎らしい……」
紅《べに》をうめたような笑《え》くぼをつくって、甘えるように笑うと、女は、そっと目で言った。
「このおつれさん? ……」
「うん、酒じゃ」
「あなたさまも?」
「呑もうぜ。料理もいつものようにな。きのうのようにまた烏賊《いか》のさしみなんぞを持って来たら、きょうは癇癪《かんしゃく》を起すぞ、あまくて、べたべたと歯について、あんなもの、長州人の喰うもんじゃ。おやじによく言ってやれ」
立ちあがろうとしたのを、慌《あわ》てて新兵衛は、目交《めま》ぜで止め乍ら、まだなにか言いたそうに、もじもじとしていたが、平七の顔いろを窺《うかが》い窺い、女を隣りの部屋へつれて行くと、小声でひそひそとなにかささやいた。
ぱっと首すじまで赤く染め乍ら、女は、顔をかくすようにして、下へおりていった。
しかし平七は、なにが目に這入ろうとも、まるで感じのない男のように、ぐったりと両手の中へ頤をのせたまま、物も言わなかった。
やがて、その頤のまえへ酒が運ばれた。
「さあ来たぞ。うんとやれ」
「…………」
「どうしたんじゃ。飲まんのかよ。――機嫌のわるい顔をしておるな。注《つ》いでやろうか」
なみなみと新兵衛が注いだ盃《さかずき》を、だまって引き寄せると、だまって平七は口へ持っていった。
別に機嫌がわるいわけではなかった。酒にさえも、平七の感情は、今もうこわばって了《しま》って、なんの反応もみせなかった。いや、反応がないというよりも、むしろそれは、表情を忘れて了ったという方が適切だった。急激に自分たちの世界を打《ぶ》ち壊《こわ》されて了って、よその国のよその軒先《のきさき》に、雨宿りしているようなこの六七年の生活が、それほども平七の心から、肉体から、弾力を奪いとって了ったのである。
「仕様のない奴じゃな。折角よろこばそうと思ってつれて来てやったのに、もっとうれしそうに呑んだらどうじゃ」
「…………」
「まずいのかよ。酒が!」
「うまいさ」
「うまければもっとうまそうに呑んだらどうじゃ」
気になったとみえて、新兵衛がたしなめるように横から言った。
しかし、そう言い乍ら新兵衛も、特別うまそうに呑んでいるわけではなかった。なにか心待ちにしていることがあるらしく、何度も何度もそわそわとして、梯子段《はしごだん》の方をふりかえった。
それを裏書するように、花簪《はなかんざし》の小女が、最後の料理を持って来て並べて了うと、ちらりと新兵衛に目交ぜを投げておいて、かくれるように向う端《はじ》の暗い部屋の中へ這入っていった。
そわそわと待っていたのは、その合図だったとみえて、間《ま》もおかずに新兵衛が、あとを追い乍ら這入っていった。――同時になにか悶《もだ》えるような息遣いがきこえたかと思うと、小女の花簪が、リンリンとかすかに鳴った。
しかし平七は、それすらもまるでよその国の出来ごとのように、ふわりとした顔をして、頬杖《ほおづえ》をついたまま、あいた片手で銚子《ちょうし》を引寄せると、物憂《ものう》げに盃を運んだ。
「まあ。お可哀そうに。ひとりぽっちなのね」
不意にそのとき、ガラガラした声が、下からあがって来ると肥《ふと》った女中が、ぺったりとそばへ来て坐って、とりなすように言った。
「罪なことをするのね。こんなおとなしい人をひとりぽっちにしておいて、まずかったでしょう、お酒が」
「昔からおれはひとりぽっちだ」
突然、平七が怒ったように言った。――しかし本当に怒ったわけではなかった。
「ふ、ふ、ふ、ふ、ふ……」
しばらく間をおいてから、思い出したように笑うと、ぽつりと女に言った。
「前の川は今でも深いかね」
「深いですとも、江戸が東京に変ったって、大川は浅くなりゃしないですよ」
「そういうものかな。じや江戸が東京になっても、人が死ねるところでは、やっぱり人が死ねるということになるんだな」
「まあ。気味のわるいことを仰有《おっしゃ》るのね。なんだってそんなおかしなことをおききなさいますの?」
「むかしからこの前の川で何人ぐらい死んだか。変らないものはいつまで経《た》っても変らないから、妙なもんだと思っていたところさ。――貴君はいくつだね」
「おい……」
話の腰を折るように、その時新兵衛が、向うの暗い部屋から顔だけ出すと、頤をしゃくって言った。
「もうかえるんだよ」
「……? あ、そうか。花は散ったか」
ふらりと立ちあがって、平七は、こともなげな顔をし乍ら、のそのそとおりていった。
水にも土手にも、しっとりと闇《やみ》がおりて、かすかな夜露《よつゆ》が足をなでた。
どこにいるのか、暗いその川の中で、ギイギイと櫓《ろ》が鳴った。
充《み》ち足《た》りたらしく新兵衛が、上機嫌な声で、暗い土手の闇の中からせき立てた。
「貴公どっちへかえるんじゃ」
「うん……」
「うんじゃないよ。なにをそんなところでぼんやりしておるんじゃ」
「うん……。なるほどこのあたりは、むかし通り深そうじゃな。だぶりだぶりと水が鳴っているよ」
「つまらんことを感心する奴じゃ。ぼんやりしておったら置いてゆくぞ」
不意にうしろで、リンリンと、簪《かんざし》が鳴った。
恥しそうに襖《ふすま》の奥へかくれ乍ら、顔も見せなかったのに、いつのまにかこっそりと新兵衛を送って来ていたとみえて、ためらい、ためらい、あの小娘が花簪の音を近づけると、土手ぎわにしょんぼりと立っている平七の黒い影を、じっと見すかし乍ら、なにか言いたそうに、暫《しばら》くもじもじとしていたが、
「わるかったのね。あなたばかりひとりぽっちにしておいて、それがお寂《さみ》しかったから、そんなに悲しそうにしておいでなのでしょう。――こんどはきっと……。こうしてさしあげたらいいでしょう」
ささやくように言い乍ら近寄って、突然、軟らかく平七の手を握りしめたかと思うと、リンリンと簪を鳴らし乍ら、逃げるように門の中へ駈けこんでいった。
二階へあがって、見送ってでもいるらしく、顔のみえない窓から、同じ簪の音がかすかにリンリンときこえた。
三
「平七。――これよ、平七平七」
「…………」
「毎日毎日耳の遠い奴じゃな。平七はどこじゃ。平《へい》はおらんか!」
あくる日の夕方、また有朋が、とげとげしい声で奥から呼び立てた。
庭へ廻れというだろうと思って待っていたのに、しかし、どうしたことか、きょうは、その庭の向うから、下駄の音が近づいて来たかと思うと、声と同じように尖《とが》った顔がひょっこりとのぞいた。
「なんじゃ。また靴を磨いておるのか」
きのうと同じように平七は、裏木戸のそばの馬小屋の前に蹲《うずく》まって、有朋が自慢の長靴をせっせと磨いていたところだった。
それが機嫌をよくしたとみえて、有朋のとげとげしく長い細い顔が、珍らしく軟らいだ。
「おまえ、どうかすると馬鹿ではないかと思うときがあるが、使いようによっては、なかなか律義《りちぎ》もんじゃな。わしが大切にしている靴だから、大切に磨かずばなるまいという心掛けが、育ちに似合わずなかなか殊勝《しゅしょう》じゃ。もう少しはきはきしておったら、出世出来んもんでもないが……」
「…………」
クスクスと平七が突然笑った。
「なにがおかしい! ――どこがおかしいんじゃ」
「わたしはそんなつもりで、磨いていたわけではないんですが」
「ではどんなつもりで磨いたというんじゃ」
「こうやってぼんやり手を動かしておると、心持が馬鹿になれますから、それで磨いていたんですが」
「またそういうことを言う! そういうことを言うから、なんとか出世の道を開いてやろうと思っても、する気になれんのじゃ。馬鹿になる稽古《けいこ》をするというならそれでもいいが……」
ぽかりと穴があいたように、突然そのときどうしたことか、平七のもたれかかっていた裏木戸が、ギイとひとりでに開《あ》いた。
すぐにそこから小径《こみち》がつづいて、あたりいちめんに生《お》い繁《しげ》っているすすきの穂の先を、あるかないかの風が、しずかな波をつくり乍ら渡っていった。
きのうに変って、カラリと晴れたせいなのである。そよぎ渡るその風の間に、このあたり向島《むこうじま》の秋らしい秋の静寂《せいじゃく》が初めて宿って、落ちかかった夕陽のわびしい影が、かすかな縞《しま》をつくり乍ら、すすきの波の上を流れていった。
「平七」
「へい」
「…………」
「…………」
「秋だな」
「秋でござりますな」
なんというわけもなかった。有朋も有朋ということを忘れて、平七も平七ということを忘れて、いつともなしにふたりは肩を並べ乍ら、すすきの径の中に出ていたのである。――足が動いているのではなかった。こころが歩いているというのが本当だった。
どこへ、というわけもなく、ふたりは肩を並べ乍ら、土手の方へあがっていった。
「おまえはどちらへ行くつもりじゃ」
「どちらでもいいですが……」
「わしもどちらでもいいが……」
なんということもなかった。片身《かたみ》違《ちが》いに足を動かしているうちに、いつのまにか平七はふらふらと、ゆうべのあの石原町の小料理屋の方へ歩いていった。
有朋もまた、いつのまにかそこへ行く約束をして了ったような顔をし乍ら、ふらふらと平七のあとからついていった。
うすい灯のいろが、ゆうべのように川岸《かし》の夕ぐれの中に滲《にじ》んで、客もないのか、打ち水に濡れた石のいろが、格別にきょうはわびしかった。
「あっ。閣下じゃ。山県の御前様《ごぜんさま》じゃ。――どうぞこちらへ。さあどうぞ! お雪、お雪……。お雪はどこだえ!」
和服の着流しではあったが、尖ったその顔で有朋と気がついたのである。帳場の奥から眉《まゆ》の青ずんだ女将《おかみ》が、うろたえて出て来ると、慌《あわ》てふためき乍ら、ゆうべのあの二階の部屋へ導いていった。
「どうぞ。どうぞ。さあどうぞこちらへ。こんなむさくるしいところへわざわざお越し下さいましてなんと申してよいやら。只今女たちをご挨拶《あいさつ》に伺《うかが》わせますから。さあどうぞ!――もし、お雪さん! お座布団《ざぶとん》だよ! 上等のお座布団はどこだえ!」
「…………」
「お雪さん! お雪! お雪! ――お雪はどこだえ!」
浅墓《あさはか》な声で呼び立て乍ら、女将は、ひとりで
前へ
次へ
全4ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
佐々木 味津三 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング