やつが刀なぞ引き抜いて、あばれに来たゆえ、くくられたのじゃ! 退《ど》けっ。退けっ」
「いいえ! たとえこの身が八《や》ツ裂《ざ》きになりましょうとも退きませぬ! 道へお集りのみなさまもきいて下さいまし! このご前は、この嘘つきのご前さまは――」
「まだ言うかっ」
お雪の叫びよりも、いつのまにか黒集《くろだか》りに駈け集った人の耳が恐ろしかったものか、パッと有朋が大きくひとゆり馬上の身体をゆり動かしたかと思うと、お雪の白い顔が、なにか赤いものを噴きあげて、のけぞるように馬の下へころがった。
「平七! 行くぞ! さきへ!」
逃げるように角《かく》を入れて、駈け出そうとしたその一瞬だった。
突然、目をつりあげて、その平七が横から飛びつくと、お雪の放した有朋の靴へ、身代《みがわ》りのように武者ぶりついた。
「なんじゃ! たわけっ。おまえが、おまえが、なにをするのじゃ。放せ! 放せ!」
しかし、平七の手は放れなかった。武者ぶりついたかとみるまに、ずるずると片靴を引きぬいた。
反抗でもなかった。憤《いきどお》りでもなかった。恋でも、義憤でも、復讐でもなかった。水ぶくれのように力なくたるんでいた平七の五体が、ぷつりと今の今、全身の力をふるい起して、はじけ飛んだというのがいち番適切だった。
抜き取ったその靴をしっかり両手で抱いて、ぼろぼろと泣き乍ら、土手を下へおりていったかと思うと、まだ陽《ひ》の高い秋の大川の流れの中へ、じゃぶじゃぶと這入っていった。
とみるまに、すうと深く水の底へ沈んでいった。
「あっ。ありゃ、ありゃたしかに金城寺の旦那さまの筈だが、――お見事だなあ」
寄り集《たか》っていた群集の中から、年老《としお》いた鳶《とび》の者らしい顔が出て来ると、感に堪《た》えたように言った。
「金城寺の旦那さまなら、水練に達者の筈だが、泳ぎの出来るものが溺《おぼ》れ死ぬのは、腹を切るより我慢のいるもんだという話だが、――さすがだなあ……」
しかし、水の底からは、それっきりなにも浮きあがらなかった。
自分を持ちこたえる気力のないものが、自分を憫《あわれ》んで、自《みずか》ら生きる力もないその命を仕末するにはこうするよりほかに途《みち》がないと言わぬばかりに、ちいさな泡《あわ》が、ぶくぶく、ぶくぶくと、かすかに二度三度湧きあがって来たばかりだった。
底本:「小笠原壱岐守」大衆文学館文庫、講談社
1997(平成9)年2月20日第1刷発行
底本の親本:「佐々木味津三全集10」平凡社
1934(昭和9)年発行
初出:「講談倶楽部 十二月号」
1933(昭和8)年発行
入力:大野晋
校正:noriko saito
2004年11月1日作成
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