ぎの流言《りゅうげん》と不安に動揺していたが、しかし、まだまだ江戸の子女の胸には、長い伝統と教養が育てた旗本公子という名前が、ひそやかなあこがれとなっていたとみえて、その日も、宿下りに名を藉《か》りてお城をぬけ出した奥女中たちが、三|艘《そう》の舟に美しい顔を並べ、土手を埋《うず》めている見物の顔も、また、殆《ほと》んどその大半が、若い女ばかりと言っていいほどだった。
騎は、三十六騎。
十二騎ずつひと組となって、平七はその第二組だった。
駒は、桜田の御厩《おうまや》から借りて来た葦毛《あしげ》だった。
葦毛には、この色が映《は》えてよかろうという母のこころ遣いから、朱いろ、総塗り、無紋の竹胴《たけどう》をきっちりと胸につけて、下着も白の稽古《けいこ》襦袢《じゅばん》、鉢巻《はちまき》も巾広の白綸子《しろりんず》、袴《はかま》も白の小倉袴《こくらばかま》、上も下もただひといろの白の中に、真紅《しんく》の胴をくっきりと浮かせた平七が、さっと水しぶきを立て乍ら乗り入れたときは、岸の顔も、舟の中の顔も、打ちゆらぐばかりにどよめき立った。
水練は言うまでもないこと、早駈《はやが》け、水馬、ともに、人におくれをとったことのない平七なのである。
ド、ド、ドウ、
ハイヨウ、
ド、ド、ドウ、
と乱れ太鼓のとどろく間を、三騎、五騎とうしろに引き離して、胸にくっきりと真紅の胴が、浮きつ沈みつしぶきの中をかいくぐっていったかと思うまもなく、平七の葦毛は、ぶるぶると鬣《たてがみ》の雫《しずく》を切り乍ら、一番乗りの歓呼の土手へ、おどるように駈けあがった。
ただ、夢のようなこころもちだった。
どんな叫びと顔がなだれ寄って来たか、このときぐらい平七は、旗本の家に生れたというよろこびと誇りを、しみじみと感じた一瞬はなかった。
しかし、世間は、そのよろこびをよろこびとしてくれなかった。
旗本の中堅ともなるべき若者たちが、婦女子の目をよろこばす以外に、なんの能もないような水馬の遊戯なぞに、うつつをぬかしているから、江戸勢はどこの戦いでも負けるのだ。――そういう非難と一緒に、防ごうにも防ぎきれぬ太い腕力がやって来て、なにもかもひと叩きに叩きつぶして了《しま》ったのである。
ほんとうにそれは、どうにもならぬ荒っぽい洪水のような腕力だった。匂いのあるところから匂いを奪いとり、色彩のあるところから色彩を消し落し、しずかな水だまりには、わざと石を投げこんでこの世をただ実用的なものにすればそれでいいと言ったような、いかにも仕方のない暴力だった。
そういう野蛮に近い腕力に対《むか》って、心の中までもキメのこまかくなっている旗本が、いかほどふん張ってみたとて、防ぎきれるわけのものではないのだが……。
そのころから、この川の水さえも濁り出したくらいだが……。
「おい! ……」
突然、そのとき、だれかおいと言って、荒っぽく肩をどやしつけた。――平七は、面倒くさそうに顔を起すと、どんよりとした目を向けて、ふりかえった。
立っていたのは、同じ番町《ばんちょう》で屋敷を隣り合わせて、水馬のときにも同じ二組で轡《くつわ》を並べて、旗本|柔弱《にゅうじゃく》なりと一緒に叱られた仲間の柘植《つげ》新兵衛だった。まもなくその非難に憤起《ふんき》して、甲府までわざわざ負けにいって、追い傷を二ヵ所だか三ヵ所受けたという噂《うわさ》を最後に、ばったり消息の絶えていた男だった。
しかし、今もなおこの幕臣の髷《まげ》の中には、旗本柔弱なりと叱られたそのときの余憤《よふん》がこもっているのか、わけても太い奴を横ざしにぶっ差して、目の光りのうちにも、苛々《いらいら》とした反抗のいろが強かった。
「つまらん顔をしておるな。なんというみすぼらしい恰好《かっこう》をしているんじゃ」
その目で射すくめるように見おろし乍ら、新兵衛は、軒昂《けんこう》とした声で言った。
平七は、だまって自分の身体《からだ》を見廻した。――なるほどその言葉の通り、皮膚のいろも、爪のいろまでが光沢《つや》を失って、ほんの昔、真紅の胴に白いろずくめのしぶきを切り乍ら、武者振りも勇しくこの大川を乗り切ったときの、あの目のさめるようなみずみずしさは、どこにも見えなかった。
「ふ、ふ、ふ、ふ……」
気のぬけたように笑うと、平七は、長々とした欠伸《あくび》をやり乍ら、たるんだ声で言った。
「おまえさん、近ごろ、なにをしておいでじゃ」
「こっちで言いたい言葉じゃ、貴公、山県狂介のところで、下男《げなん》のような居候《いそうろう》のような真似《まね》をしておるとかいう話じゃが、まだいるのか」
「おるさ」
「見さげ果た奴じゃ。仮りにも旗本と言われたほどの幕臣が、讐《かたき》同然な奴の米を貰うて喰って、骨なしにもほ
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