どがあると、みんなも憤慨していたぞ。――あんな奴のところにおったら面白いのか」
「とんと面白くない」
「なければ、そんなところ飛び出したらどうじゃ」
「かと言うて、世間とてもあんまり楽しくあるまい」
「張り合のないことを言う男じゃな。こんなところでなにをぼんやりしていたのじゃ」
「新聞社へネジ込んで来いと言うたんで、出て来たところさ」
「なにをネジ込みに行くのじゃ」
「狂介狂介と呼びずてにするから、脅《おど》して来いと言うのさ」
「行くつもりか」
「いきませんね。狂介だから狂介と言われるに不思議はないからな。随《したが》って、ぼんやりと立っていたのさ」
「骨があるのかないのか、まるで海月《くらげ》のようなことを言う奴じゃな。――不憫《ふびん》な気がしないでもない。望みならば、一杯呑ましてやろうか」
「金はあるのか」
「あるから、つれていってやろうと言うのじゃ。――行くか」
「…………」
 ふわりとした顔をして、平七は、のそのそとそのあとから歩き出した。

         二

 橋をまた向うへかえって、川沿いに右へ曲ると、新兵衛は、土手を下《しも》へどんどんと急いでいった。
 左側一帯は、大きな屋敷の間に、手頃な屋敷がぎっしりと並んで、江戸の境いから明治へ跨《また》ぎ越えるまでは、塀《へい》からのぞいている木の枝ぶりまでにも、しずかな整頓があったが、それも今は、氾濫《はんらん》して来た腕力の思うままな蹂躙《じゅうりん》にまかせて、門は歪《ゆが》み、表札は剥《は》ぎとられ、剥いだあとのその白いところへ、買ったような、巻きあげたような、便利な方法で私有物にした人たちの名まえが、読みにくい字でべたべたと書かれて、このままいったらどうなることか、通りすがりにただ見ただけでも、カサカサと咽喉《のど》が渇《かわ》いてゆくような感じだった。
 そういう塀つづきのはずれに、うすい灯《ひ》のいろをにじませた本所《ほんじょ》石原町の街があった。
 あたり一帯を、官員屋敷に取り囲まれてしまった中にはさまって、せめてもこの孤塁《こるい》だけは守り通そうというように、うるんだ灯のいろの残っている街だった。
 その向う角の、川に向いた一軒の、
 お江戸お名残り、めずらし屋
 と、少し横にすねたような行灯《あんどん》のみえる小料理屋の門の前に止まると、新兵衛は、頤《あご》をしゃくるようにして目交《めま》ぜをし乍ら、さっさと中へ這入《はい》っていった。
 狭《せま》い前庭《まえにわ》に敷いた石に、しっとりと打ち水がしてあって、濡《ぬ》れた石のいろが、かえってわびしかった。
「まあ、ようこそ……」
 たびたび来ているとみえて、顔なじみらしい女中がふたり、あたふたと顔を並べ乍ら下へもおかずに新兵衛を請《しょう》じあげた。
 しかし、新兵衛は、ほかに誰か目あてがあるらしく、あちらこちらと部屋をのぞきのぞき、川に向いた三間《みま》つづきの二階へ、どんどんとあがっていった。
 その部屋のてすりにもたれて、ひらひらと髪の花簪《はなかんざし》を風に鳴らし乍ら、ぼんやりと川をみていた小柄《こがら》な女が、おどろいたようにふりかえった。
「あら……」
「おお、いたのう」
 探していたのはそれだったのである。まだ十七八らしく、すべすべした肌のいろが、川魚のような光沢《つや》を放って、胸から腰のあたりのふくらみも、髪の花簪のように初々《ういうい》しい小娘だった。
「いかんぞ。そんなところで浮気をしておっては。――まあここへ坐れ」
 たびたびどころか、毎日来ているとみえて、新兵衛は、無遠慮に女の手をとり乍ら、そばへ引よせた。
「きんのう来たとき、襟足《えりあし》を剃《そ》れと言うたのに、まだ剃らんの」
「でも、忙しいんですもの……」
「忙しい忙しいと言うたところで、こんな家へ八|字髭《じひげ》の旦那方は来まいがな。みんなおれたちみたいな風来坊ばかりじゃろうがな」
「ええ、それはそうですけれど……」
「毎日|文《ふみ》を書いたり、たまにはいろ男にも会《お》うたりせねばならんゆえ、それが忙しいか」
「まあ、憎らしい……」
 紅《べに》をうめたような笑《え》くぼをつくって、甘えるように笑うと、女は、そっと目で言った。
「このおつれさん? ……」
「うん、酒じゃ」
「あなたさまも?」
「呑もうぜ。料理もいつものようにな。きのうのようにまた烏賊《いか》のさしみなんぞを持って来たら、きょうは癇癪《かんしゃく》を起すぞ、あまくて、べたべたと歯について、あんなもの、長州人の喰うもんじゃ。おやじによく言ってやれ」
 立ちあがろうとしたのを、慌《あわ》てて新兵衛は、目交《めま》ぜで止め乍ら、まだなにか言いたそうに、もじもじとしていたが、平七の顔いろを窺《うかが》い窺い、女を隣りの部屋へつれて行くと、
前へ 次へ
全9ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
佐々木 味津三 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング