山県有朋の靴
佐々木味津三
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)平七《へいしち》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)狂介|権助《ごんすけ》
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一
「平七《へいしち》。――これよ、平七平七」
「…………」
「耳が遠いな。平七はどこじゃ。平《へい》はおらんか!」
「へえへえ。平はこっちにおりますんで、只今、お靴《くつ》を磨《みが》いておりますんで」
「庭へ廻れ」
「へえへえ。近ごろまた東京に、めっきり美人がふえましたそうで、弱ったことになりましたな」
「またそういうことを言う。貴様、少うし腰も低くなって、気位《きぐらい》もだんだんと折れて来たと思ったらじきに今のような荊《とげ》を出すな。いくら荊を出したとて、もう貴様等ごとき痩《や》せ旗本の天下は廻って来んぞ」
「左様でございましょうか……」
「左様でございましょうかとは何じゃ。そういう言い方をするから、貴様、いつも叱《しか》られてばかりいるのじゃ。おまえ、郵便報知《ゆうびんほうち》というを知っておろうな」
「新聞社でございますか」
「そうじゃ。あいつ、近ごろまた怪《け》しからん。貴様、今から行ってネジ込んで参れ」
「なにをネジ込むんでございますか」
「わしのことを、このごろまた狂介《きょうすけ》々々と呼びずてにして、不埒《ふらち》な新聞じゃ。山県有朋《やまがたありとも》という立派な名前があるのに、なにもわざわざ昔の名前をほじくり出して、なんのかのと、冷やかしがましいことを書き立てんでもよいだろう。新聞が先に立って、狂介々々と呼びずてにするから、市中のものまでが、やれ狂介|権助《ごんすけ》丸儲《まるもう》けじゃ、萩のお萩が何じゃ、かじゃと、つまらんことを言い囃《はや》すようになるんじゃ。怪しからん。今からすぐにいって、しかと談じ込んで参れ」
「どういう風《ふう》に、談じ込むんでございますか。控えろ、町人、首が飛ぶぞ、とでも叱って来るんでございますか」
「にぶい奴じゃな。山県有朋から使いが立った、と分れば、わしが現在どういう職におるか、陸軍、兵部大輔《ひょうぶたゆう》という職が、どんなに恐ろしいものか、おまえなんぞなにも申さずとも、奴等には利《き》き目《め》がある筈《はず》じゃ。すぐに行け」
「へえへえ。ではまいりますが、この通りもう夕ぐれ近い時刻でございますから、かえりは少々おそくなるかも存じませんが、今夜もやはり、こちらでございますか。それとも御本邸の方へおかえりでございますか」
「そんなつまらんことも聞かんでいい。おそくかえって、わしの姿がここに見えなかったならば、本邸へかえったと思うたらよかろう。思うたらおまえもあちらへかえったらよかろう。早く出かけい」
「…………」
風に吹かれている男のように、平七は、ふらふらと、三《み》めぐりの土手の方へあがっていった。
とうにもう秋は来ている筈なのに、空はどんよりと重く汚れて曇って、秋らしい気の澄みもみえなかった。
もしそれらしいものが感じられるとすれば、土手の青草の感じの中に、ひやりとしたものが少し感じられるくらいのものだった。
そういう秋の情景のない秋の風景は、却《かえ》って何倍か物さびしかった。
平七は、ぼんやりとした顔つきで、ふらふらと土手を下《しも》へ下って行くと、吾妻《あづま》橋の方へ曲っていった。
僅《わず》かに感じられる江戸の名残りだった。たまり水のように、どんよりと黒い水を張った大川の夕ぐれが、点々と白い帆を浮かせて、次第に広く遠く、目の中へひろがって来たのである。
まだ廃刀令《はいとうれい》も断髪令《だんぱつれい》も出てはいなかったが、しかし、もう大小《だいしょう》なぞ無用のものに思って、とうから腰にしていない平七は、でも、そればかりはせめてもの嗜《たしな》みに残している髷《まげ》の刷毛《はけ》さきを、そっと片手で庇《かば》うように押えて、残った片手で、橋の欄干《らんかん》をコツコツと叩《たた》き乍《なが》ら、行くでもなく止まるでもなく、ふわふわと、凧《たこ》のようにゆれていった。
「川、川、川」
「舟、舟、舟だ」
「水もだんだんと濁って来たなあ……」
ふわりと止まると、平七は、コツコツとやっていたその手の中へ、投げこむように頤《あご》をのせて、ぼんやりと水に目をやった。
あれからもう何年ぐらいになるか、――やはりこんなような秋の初めだった。
場所も丁度《ちょうど》、この橋の川上だった。久しく打ち絶えていた水馬《すいば》の競技が、何年かぶりにまた催《もよお》されることになって、平七もその催しに馳《は》せ加わった。
いずれも二十《はたち》から二十五六までの、同じような旗本公子ばかりだった。人心は、日ごとに渦巻《うずま》く戦乱騒
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