た。
 今のさき、脇差をつきつけて、割腹自裁を迫ったばかりなのです。死なぬと言ったら、俄かに将軍家お直裁《じきさい》に戦法を替えて来たのです。対手は智恵豊後と評判の智恵者なのだ。登城お直裁を仰ぐとは元より口実、裏には恐るべき智恵箱の用意があるに違いない。第一、自決を迫ったことからしてが、正邪黒白をうやむやにして、闇から闇へ葬り去ろうとした策だったに相違ないのです。今もなおやはり豊後の胸の奥底深くには、恐るべきその魂胆が動いているに相違ないのです。
 さればこそ、十名もの放し鳥をずらりと身辺へ配置して、隙あらばと狙っているに違いないのでした。
「名うての智恵者も老いましたのう。京弥!」
 それならばそのようにこちらにも策があるのです。主水之介は打ち笑みながらふりかえると、襖のあわいから血走った目をのぞかせて、いざとなったら躍り出そうと身構えていた京弥へ静かに命じました。
「月代《さかやき》じゃ。用意せい」
「ではあの、御登城なさるのでござりまするか!」
「そうじゃ。早乙女主水之介、死にとうないからのう、上様、おじきじきのお裁きとは願うてもないことじゃ。早う盥《たらい》の用意せい」
「でも
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