影も何の影もない。
 うちの中もしいんと静まり返っているのです。
 仔細にのぞいてみると、奥の座敷あたりに灯の影がある。
 退屈男はどんどんと上がりました。
 梅甫と小芳とがその灯の蔭で抱き合って、びっくりしながら、青ざめつ、目をみはりつつ、ふるえているのです。
「どうした!」
「………?」
「何をふるえているのじゃ。昼間小屋で会うた主水之介ぞよ。どうしたのじゃ」
「あの、ほ、ほんとに、傷《きず》のお殿様でござりますか!」
「おかしなことを申すのう、主水之介はふたりない。兄が駈けこんで来たゆえ参ったのじゃ。何を怕《こわ》がっているぞよ」
「兄!……。あの、十五郎がいったんでござりまするか!」
「そうよ。ほんの今深川まで血を浴びて身共を追っかけて来たゆえ、眉間傷の供養にやって来たのじゃ。何をそのようにびっくりしているのじゃ」
「いいえ! そ、そんな馬鹿なことはありませぬ! ある筈がござりませぬ!」
 真ッ青になると、梅甫が突然実に意外なことを言ってふるえ出しました。
「あ、兄が、十、十五郎が、深川なぞへ行かれる筈がござりませぬ。兄はほんの今しがた血を浴びて、ふわふわとここへ来たばかりでご
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